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「特集:自粛警察と正義―社会に苛まれた真面目すぎる人たち―」2020春学期 社会学理論Ⅰ期末レポート

シリーズ「蘇る社会学の巨人たち」第0回放送台本抜粋

(1)今回のテーマの概要

自粛警察。それは実に奇妙な社会現象である。
 新型コロナウイルス感染症が拡大した緊急事態宣言下、政府の「自粛要請」に従わなかったとして様々な理由で営業を続ける店舗に脅迫や暴行を加える「自粛警察」が発生した。
 一見彼らは「私刑」として自分の主張を欲望のままに押し付けているように見えるが、その主張の根幹を辿れば「世の中のため」、他人の営業している店に怒鳴り込んだり、窓ガラスを割ったりする。社会のために、同じく社会の構成員である「店舗の営業主」に牙をむいているのだ。
 本来は社会の安定や安寧を願う感情から端を発した行動が、いつのまにか人々を悲しませ社会不安を掻き立てる行為に成り代わっている。こうした「自粛警察」はなぜ発生し、その「正義感」は何によって規定され形成されるのか。また、こうした事象を鎮めるためには、私たちは社会の中でどのように振舞えばいいのだろうか。
 今回の番組ではウェーバーとジンメル、そしてデュルケームという社会学における3大巨頭による対談を中心に論をまとめていく。


(2)「自粛警察」の要因とその問題点

 日本人は集団主義的で同調圧力の高い国民性を有していると昔からよく言われている。(原田,2020)によれば、「わが国の緊急事態宣言は、諸外国とは異なり、強制力や罰則を伴ったものではなかったが、大多数の日本人はそれに従って、経済活動や外出を自粛し、その結果、感染爆発や医療崩壊など危惧された事態をものの見事に回避した。この点は、世界中から賞賛を集めているし、われわれも自身の努力や忍耐力、そして『公共』というものに対する高い責任感を誇るべきだろう」と日本独自の特性を生かした感染対策を評価する一方で、「コロナ警察」となった彼らを「過剰に集団主義的で集団のルールを個人の自律や尊厳よりも過度に重視し、知的柔軟性を欠いた人々」だとしている。

 確かに公衆衛生の重大局面においては社会全体が協力して規範を守らなければ、集団は感染の蔓延という大きな危機に瀕することが予想される。だから誰もがその大きな集団的利益のために、個人的利益を犠牲にしている。
 一方、個人的利益ばかりを追求している人がいれば、それは公共の利益にただ乗りする「フリーライダー」であり、集団にとって危機を呼び込む存在である。

 (原田,2020)はこのような人々の心理の根底に過度な「不安」と「不公平感」があるとしている。
 不安にさいなまれた人々は面倒で複雑な判断をする心理的余裕がなくなり、その結果「目の前の小さな違反は集団全体を危機に陥らせるほどのものか」という冷静な視野が失われ、感情のままに過剰に行動に出てしまうのだ。また、私たち人間は元来「公平社会信念」と呼ばれる「世の中は公平にできている」という信念を有し、悪しき者には「バチ」が当たると考えている。ここから発展し、世の中が我慢して大変なご時世に依然と変わらず生活している人は不公平である、「バチ」が当たって当然だと考え、自ら罰を与えることにも抵抗感がなくなるのである。これについて(原田,2020)は次のように述べている。

 これは裏を返すと、彼らは公平であるべき社会の中において、日ごろから不公平の犠牲となっている人々なのかもしれない。すでに多くの人々は自覚しているように、社会は公平などとは程遠い。不公平は至るところにある。社会は公平であるという信念はナイーブすぎる。

 しかし、逆説的であるが不公平の犠牲となっている人ほど、目の前の不公平を見ないふりをして、「いつか公平になるはずだ」「この不公平は正されるはずだ」と信じて、「公平な社会」を信じないではいられないのだ。そして、いつしか公平を乱す人々に大きな脅威を抱き、公平な社会の実現のためという「正義」の鉈を振るうようになる。

 このように考えると、「コロナ警察」の人々を糾弾するだけで物事は解決しないことがわかる。彼らの心理の底にある不安や不公平感を抜本的に解決することこそが、社会の、そして政治の役割だといえるだろう。

 このように捉えると、自粛警察のことを単純に「自意識が高すぎる、不寛容だ」や「大衆に迎合する事なかれ主義の人々」と揶揄することはできなくなりそうだ。(藤,2020)も「自粛警察については、「正義の暴走」や「歪んだ正義」と批判的な見方が大方だが、このように単純に結論づけるだけでいいのだろうか」と疑問を呈している。

 自粛警察が生まれる要因が社会の不公正や構造、世代間の知識の差、あるいはコミュニケーション不足にあるのだとすれば、それは必ずしも感染症に限った話ではなくなってくる。その「歪んだ正義」さえも、彼らなりの背景があったうえで生まれたものだと言えるだろう。


(3)今回の論点

 上記で述べたように、自粛警察が発生する裏側には様々な社会的要因がありそうだ。

 この番組では存命中もよき理解者であったウェーバーとジンメル、加えてゲストのデュルケーム3人の議論の中でコロナ禍の只中にある令和の日本の姿を分析する。それぞれの論者の意見を見比べることで、社会学的見地から考えを示したいと考えている。

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(以下、進行台本最終案)

~飛沫感染防止用の透明な衝立を隔てて話す二人の画からスタート~

ジンメル(以下G):「さて、始まりました、本格社会派ワイドショー『蘇る社会学の巨人たち』!いやあこうして会うのも久しぶりだねえウェーバー君。ベルリンを去るのは名残惜しかったけど、晩年に職を見つけてくれたことは今でも感謝しているよ。」

ウェーバー(以下W):「いやいや、当然のことをしたまでさ。君のように才能のある人はやはりしかるべき評価をされるべきだよ。ところで、今回は21世紀の日本に蘇った僕らが社会現象について議論することになってるんだって?」

G:「うん、そのようだよ。僕らにもう一度社会学の話をする機会を与えてくれるとはヤハウェも粋なことをしてくれるね。今回は時空を超えた議論になるから生前に直接の関わりがなかったあんな人やこんな人もゲストとして来てくれるようだよ。」

W:「いやあそれは楽しみだ。さて今回のテーマだが「自粛警察」ということだね。簡単にその社会背景と経緯を確認しておこうか。
地球という規模で緊密に結びつきを強めつつある21世紀の世界において「新型コロナウイルス」という病原体がヨーロッパ社会を震撼させたペストの再来と思えるほど蔓延した。
このウイルスはペストほど致命的ではないが、人と人が触れ合うほど感染が広まるという厄介な特性があるらしい。そして止まらない感染を抑えるべく発令された緊急事態宣言下では世界中の都市が都市封鎖(ロックダウン)され、外に出れば罰金されるという状態が欧米を中心に広がる中で、東アジアの日本という国では満足な休業補償が示されないまま『自粛を要請する』という不思議な状態が2020年の3月から5月にかけて2カ月ほど続いたんだ。」

G:「うわー、それよほど従順な国民性じゃないと効果ないやつ。日本人はよほど同調圧力が強いんだな。
規制なしに国民同士の判断に任せたらそれは対立が生まれるだろうよ…よほど、十分に保障をする財政的な余裕がなかったと見える。
それにしても、個人と個人の関係性が社会を作り出すと考えていた僕にとっては21世紀に広まるグローバリゼーションは大変興味深いな」

W:「まあまあ、その話はまた今度にしようじゃないか。ともかく、『営業をしたいが自粛の要請が出ている、しかし店を開けなければ生活が出来ない』という状況が生まれたことで、経済活動にもグラデーションが生まれた。元より感染症に対する個人の価値観が様々なうえに、経済的な状況が個々によって違うのだから当然だな。
そんな中、営業している店を見つけては脅迫する人々「自粛警察」が生まれたというわけさ。ルールに盲目的に従う人々の「正義」が暴走し、現状に対する不安の中で規範から逸脱していると見受けられる人々を貶めてしまう悲しき現象だね。
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』でも言ったけど、人々が何を経済的な利益と見なし、何を損と見なすかは、時代や社会によって異なるんだから、そういう時は全員が納得できるような仕組みができないとこういう過剰な正義は収まらないと思うのだが」

G:「そうだねえ、もちろん暴力は許されるべきではないけど、僕的には健全な諍いならそれは社会が成立しているという証だから多少は良いかなと思うけどね。法で規制されていない以上、ここではどちらをも責めることはできないと思うな。
でもユダヤ人の僕としてはやっぱりこういう風に常識や規範で個性が押さえつけられる社会は好きになれないな…と、ここで今日は特別なゲストが登場するんだっけ?」

W:「そうなんだ、『規範』と言えばこの方。ということで、本日のゲストはエミール・デュルケーム氏をお呼びしている!この度は感染症対策のためにオンライン会議ツールを使用して遠隔でご出演いただこう。」

(二人の間に置いてあるテレビの電源が付き、デュルケームが画面上に顔を表す)

デュルケーム(以下D):「と、もう始まっているようじゃな。こんにちは、諸君。」

G&W:「デュルケームさん、本日はよろしくお願いします」

W:「早速ですが、コロナ禍における日本で発生した『自粛警察』という現象についての考えをお聞かせ願いますか?この問題は貴方のおっしゃる『機械的連帯』『有機的連帯』に近いものがあると思うのですがいかがでしょうか?」

D:「そうじゃな、確かに同調圧力という点ではそう言えるかもしれん。
わしは『機械的連帯=抑止的法(刑法)の世界』ということで、犯罪は本質的には不道徳ではなく、共同意識を傷つけるから犯罪ということを述べた。むしろ特定の行為を罰することで規範の存在を再認識するために犯罪は必要ですらあるとも言ったな。
この自粛警察とやらの場合も同じようなことが言えるじゃろう。自粛警察がいることで人々は余計に『世間』というものの存在を意識せざるを得なくなったんじゃからな。」

G:「確かに。ある意味、休業補償などを明確に示した上で厳格なロックダウンを行った欧米は『有機的連帯』、日本のように曖昧なままでもどうにかなってしまった社会を『機械的連帯』と言うことが出来るのかもしれませんね。」

W:「なるほど、この自粛警察たちの行為は私の主張している行為の類型に照らし合せると、その暴力性から一見『感情的行為』に近いように見えますが、どちらかというと『価値合理的行為』に近いのかもしれません。完全に一致しているのとは言い難いですが。」

G:「それはどうしてです?」

W:「うーん、やはり当人たちにとっては自分たちなりの「正義」がある上で行動しているからかな。
ところでデュルケームさん、貴方の「アノミー」の考え方に基づくとどういったことが言えますか?確か社会秩序の混乱、不安定化は異常であり、病態であるというお考えをお持ちだったはずですが」

D:「んむ、『アノミー』は『集合的規範の弛緩』による欲望の噴出じゃから、この場合は当てはまらんかもしれんな。この自粛警察は半ば脳死のように盲目的にルールに依存しておるし、むしろ体制的なものには極力従おうとしようとしているように見えるぞい」

G:「その点では、彼らも自身の社会的な不安から少しでも『繋がり』や『連帯』を求め、そこから少しでもはみ出しているように見えるモノが許せない、ある意味とても真面目な人たちなのかもしませんね。」

W:「そうだね、ジンメル君。今回の議論を通して自粛警察に対する意識がだいぶ変わったよ。やはり目の前の行為だけを目にして物事を決めつけず、多様な立場を受け入れながら客観的に物事を考えたいものだね」

G:「さて、残念なことにまだまだ話したい論点は多々ありますが、時間が来てしまいました。この続きはまた今度。私たちは本の中でいつまでもあなた方を待っています。」

三人:「それではみなさん、しばしのお別れを!」

(続)
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いつの時代も関係の中で人は生きていく。

「現代に社会学者が蘇る」なんぞ馬鹿げたことと思うかもしれん。しかし、私たちが残した書籍や文献によって、未来に生きる君たちは私たちの議論の一部をここに再現して見せた。

未来を切り開くのは「学問」というフィールドにおいて、この番組の内容を紙の上で目にするだろう君たちであるという想いを込めて。

プロデューサー兼司会 
ゲオルグ・ジンメル筆(5033字)

≪参考文献≫

・原田 隆之(筑波大学),2020/5/26,「日本でも多数出現…「自粛警察」の心理を理解できますか?「正義」はこうして暴走する」,現代ビジネス,(2020/8/4取得,https://gendai.ismedia.jp/articles/-/72851?page=5)

・藤和彦(独立行政法人経済研究所・上級研究員),2020/5/14,「コロナ「自粛警察=歪んだ正義」批判で隠れる本質…自己犠牲を厭わない真面目な人ほど陥る」,Business Journal,(20208/4取得, https://biz-journal.jp/2020/05/post_157158.html

・マックス・ウェーバー,1989, 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(大塚久雄訳)

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