四姉妹
家族団欒の場所といえば、みなさんはどこを思い浮かべるでしょうか。
多分、リビングだとかダイニングだとか、そんなところが通常だと思う。
私も、家族で食卓を囲って過ごした時間はかけがえのないものとして今も心にある。
母とテレビを見て笑い合ったり、父と進路の話で喧嘩をしたり、妹と恋愛について語り合ったり。色んな思い出がある。
だけど、私の母とその姉妹にとっては、そうではなかった。そもそも家族団欒というものが、なんとなく奇妙なものだったのだ。
私がそのことを知ったのは、つい先日のことだった。
叔母が家族について書いたnoteを読んだ。
本当ならここで叔母のnoteを共有すべきところだが、個人情報保護の観点から、それは難しい。
ということで、私が読んで感じたことを、状況説明と共に書いてみようと思う。
ときに、家系図というのはよくできていて、文章で説明しようと思うととてつもなく長ったらしくなることを、すっかり簡潔に教えてくれる。
私もその恩恵に与りたいが、まあここはちょっと、敢えて行数稼ぎにでも、複雑な家庭環境を文章で書くこととする。
私がそれをたらたらと書くことで、ぜひその複雑さを体感してほしい。
私の叔母は三人姉弟の長女だった。だけど9歳の時に四姉妹の長女になった。
祖父と祖母がお互い連れ子を抱えて再婚したのだ。叔母は祖父側の連れ子だった。
血の繋がった四女と、血の繋がらない次女と三女。
それに、叔母と四女は祖父とドイツ人の女性との間に生まれた子供だった。つまりハーフだ。
彼女たちには弟がいたが、ドイツに残った。
実母と実弟と離れ、慣れない日本で暮らす。それだけでも大変なことだが、多感な女の子四人が一つ屋根の下に暮らすことは、もっと大変なことだった。
叔母のnoteには、「家の中でもなるべく遭遇しないようにお互いを避けていたほど」という表現があった。
四人がそれぞれに、血の繋がりが脆いことを知りながら、しかし血の繋がりを意識する生活だったのだと思う。
四姉妹はなんとなく距離のあるまま大人になった。それでも、親戚の集まりではよく喋り、よく笑っていた。
私はそんな過去を知らなかったし、気づかなかった。
もちろん、誰と誰とが血が繋がっているかくらいは、中学生の頃に家系図をもって母が説明してくれた。その時は大好きな祖父と血が繋がっていないことが悲しくて泣いた。
でもそれだけだった。
母や叔母や、四姉妹がどんな幼少期を過ごしたかなんて、今の今までちゃんと考えたことはなかった。
そんな能天気な私なので、数ヶ月前、十年ぶりに四姉妹が揃う場に、図々しく居合わせてしまった。
十年ぶりに会うから、四人は色んな話をして、祖父のお墓や、施設で面会した祖母と共に写真を撮った。
私は若い者として写真係に徹し、最後に四姉妹と私との五人のグループLINEを作って、そこで写真を共有した。
その時、確かに四姉妹のグループLINEがないのがなんとなく奇妙な気もしたが、そんなことはすぐ忘れた。
それからそのグループLINEは時々動いた。飼い猫の写真や、それぞれに見えた中秋の名月の写真など、他愛もない会話があった。
叔母はそのグループLINEで、四人が共通に懐かしいと思うものがあることを知った。
中秋の名月の写真に映り込む備前焼のお皿のことを、月を褒めるより、団子を褒めるより、姉妹が口々に「懐かしいね」と話した。
共通の記憶を、他愛もなく話す場所。
四姉妹にとって、そのグループLINEは「家族団欒の場所」になった。
50年の時を経て、やっと姉妹になれたようだった。
きっかけは姪の作った写真共有のためのグループLINE。
なんだか50年もちぐはぐだったわりに拍子抜けだが、きっかけはなんだっていい。
必要な時間と環境は揃っていて、あとは何かきっかけが必要だったのだと思う。
図々しく集まりに参加して本当に良かった。
四人は叔母のnoteから、それぞれの思いをグループLINEに綴った。
母は泣いていた。私も関係ないけど泣いた。
四姉妹が次に顔を合わせるのは、きっと祖母のお葬式だと思う。
祖父は他界しているけど、今回のことは祖母が向こうで祖父に教えてあげられる。
そう思うと、祖母も冥土の土産ができた。
まだまだ元気なのに、こんなことを言うと祖母に叱られるかな。
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