青木野枝 霧と鉄と山と
ちょっと疲れていたので公園にでも
行こうと思い立ちました。
ああ、そう言えば美術館があったな、と調てみると久々にピンと来たので府中美術館へ観に行ってきました。
しかも彫刻の展示は久々です。
普段は結構下調べをするのですが、あまり情報を頭に入れることなく行くことにしました。
とっても不思議な感覚です。
展示されている作品の素材は大きくて重たいはずなのに、むしろ軽快な感じすらしました。
作品の大きさに対しての重厚感はありますが、どっしりとした重たい感じはなく、また圧迫感もない。
押しつけがましい部分がなく、鉄やら石膏やら日常とは少し違う場所にあるものだし、あんなに大きな作品なのにそこに在ることが自然な気がしました。
制作方法にその鍵があるのかな、と。
大きな塊となって展示されている作品は青木さんによって溶接されたひとつひとつのパーツを繋げる事で成り立っています。
展示ごとに作品をその場で組み立てて、展示が終われば、ひとつひとつの重い素材は分解され、また青木さんのもとへ還っていくのです。
だから、同じ作品はない。
この工程が作品としての形だけを現すのではなく、一連の過程が作品として展示されているように感じました。
展示用のチラシに書いてあった文章にハッとする。
観に行ったタイミングは、自分の中での表現方法であったり、人生の在り方・捉え方を模索している時期でした。考えるあまり、考えすぎてしまい、逆に表現するためには
「こうしなくては」とか
「こうあるべきだ」という
決めつけの中で物を考えるクセが強く出ていました。
自由を求めているはずなのに、不自由さを感じるもどかしい感覚が常に付き纏っていて、何か一つが解けると楽になるのにな。と思っている所でした。
そんな時に、この展示に触れることが出来、また、青木さんの言葉を読み
「ああ、私と逆だ…」
と思いました。
何かになろうとすることが前提となっていて、それが自分を苦しめているんだな。と。
説明できる何かを作らなくてはいけない。表現とはそういうものだ。と、形を作ることを考えるのに必死でしたから…。
自分が居たいと思う場所など、感覚的なことでいいんだ。と、かなり思考が緩んだ気がします。
とてもいい刺激になりました。
(これまた刺激と言っても水面の波紋のように緩やかに穏やかに、でも確実に広がっていく感じなんですけどね)
刺激を受けた文章を最後に記しておこうと思う。
≪ずっと彫刻家になるとは思っていなかったから、彫刻家になろうとか、彫刻をつくりつづけるのが目的ではなく、生きていくなかでよくわからないことを彫刻で探っていくということの連続だった。
そういうことが彫刻で見えなくなったらやめるべきだと思う。≫
「彫刻という幸いについて」『彫刻』トポフィル 2018年
≪この世にないものを作って置くことで、その空間、場所が現れる。自分の背より高いものを作り、その中を歩く。この中に私がいたいとか、すり抜けたいとか、作りたいというのはそういう場所なのだ。≫
「青木野枝インタビュー」
『青木野枝—ふりそそぐものたち』青木野枝展実行委員会 2020年