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【006】実は協会を作った?

内藤土地家屋調査士事務所の内藤です。
前回の【005】で、公共嘱託登記土地家屋調査士協会の話をしましたが、
今回はその続編で、ふと思い出したことがありそれを紹介します。

先日、古巣である、東広島市役所の用地課のメンバーと、現在所属している公嘱土地家屋調査士協会の支部メンバーとの雑談でのことでした。
もしかして、
「公嘱土地家屋調査士協会が誕生するキッカケとなったのは内藤さんではないか?」という話になりました。私はその時「まさか?」とは思いましたが、経緯はこうです。


時をさかのぼること1980年初めの頃、
私は東広島市入庁後、最初の配属先である建設部で
それこそ用地取得の任務に就いておりました。

前回の【005】でもお話ししたように、
1980年代の日本といえばバブル景気真っ最中の
公共事業が乱立している状況でした。
用地取得の交渉や契約書作成や公共嘱託登記申請書作成など、公共用地取得の様々事務に忙殺される毎日でありました。「公共嘱託登記申請書」を作成するのに手が痛くなるまで一日中作成していました。それもカーボン紙を使いながらボールペンで正本・副本2部を作成する事務作業です。申請書を書いても書いても終わりが見えない日々が続いていました。これが建設部用地課で経験したことです。バブル景気が世の中を激しく活気づけていることを感じた瞬間でもありました。

用地対策については、公共用地の取得に際し、その土地の権利者に対して
どのような補償を行うべきかという基準を定めた
「公共用地の取得に伴う損失補償基準要綱」が1962年(昭和37年)に閣議決定されるのに先立ちその前年12月より、建設省(当時)にて用地対策連絡協議会が設立されています。
当時用地取得事務を担当する駆け出しだった私は、その用地対策連絡協議会が主催する研修に参加することになりました。
研修内容は、当時の公共事業の動向を鑑み、
「用地取得に関する一連の業務も、ある程度は行政以外の何らかの団体に協力をお願いし任せるべき」
といったもので、なるほどと共感できる内容でありました。
折しもそのころ、土地家屋調査士会(公嘱土地家屋調査士協会ではありません)の支部長(当時)が、足しげく市役所を訪れておりました。
支部長曰く、「調査士会で何かお役に立てることはないかね?」と親しみやすい言葉で営業されていたことが記憶に残っています。

これが研修での「行政以外の何らかの団体に任せるべき」との絶好の機会だったわけです。私はさっそく好機到来とばかり上司に相談したのです。
当時の市役所の職場では、ひっきりなしに次々と、上級官庁から新規の公共事業案件の誘いと地元への説明に追われる日々でした。正直、公共嘱託登記による「未登記道路の解消手続き」は、気にはなっていても後回しとなり滞っている状況でした。

一般的な用地取得と公共工事の順序は、先に「道路となる部分の土地の所有権を市の名義に変更」し、その後「市の名義になった土地内において道路工事を実施」する順で公共事業を進めます。しかし、戦後の昭和40年代は社会が車社会へと大きく変化する過渡期の時代でした。世の中はいち早く幅の広い道路を欲していました。地主さん、つまり土地所有者との交渉で合意を得ますが、合意の段階では「施行承諾」ということで、双方の合意形成はなされるが、登記手続きは後回しとなっていました。つまり、道路幅は広くなり多くの方が便利に利用できる広い道に変わるのですが、登記上は元の所有者のままという状況の案件が多くありました。

その結果何が起こるかというと、その土地を地主さんが、道路に提供し道路になった部分の面積も含めたままの登記簿に記載されている面積にて固定資産税が課せられることになってしまっていたのです。理由は、道路になっている部分の面積がハッキリとは分からない、ということからでした。
「こっちは地域のことを思って土地を手放したのに、なんで税金を払わにゃならんのだ?」という声が当然出ます。
そういった声が市議会のなかで問題として取り上げられると、所管課はその対応に迫れることになります。

そういった意味では私の上司もまた、この問題に対して相当な危機感を持っていたようです。
ですので、先の支部長からの「何かお役に立てることはないかね?」という話しは実に渡りに船だったわけです。

しかし難題はありました。お役所内部での難題ですが。
当時の支部長の「申し出」は、調査士会の総意ではなく、あくまで個人、あるいは支部単位の意思であったため、「調査士会との契約」にはならないということでした。
ひとつの士業の支部が、たとえ法人格を有していたとしても、任意団体との契約となります。当時その支部には当然法人格も無いわけですから。

支部長の「申し出」について、当時の上司に説明・相談をした結果、役所としての使命を優先させるべく決断をされたのです。「自分が責任を持つから進めてくれ!できるだけ職員の労力が少なくなる領域の範囲まで、外部に任せられる事項は全て任せられる仕組みを作ってくれ!。頼むぞ内藤君。思い切ってやれ!。」そんな言葉を上司から頂き目と目を見つめ合ったことで、上司の思いを受け止め自分がなすべき事への気持ちを奮いたたせたことを今でもハッキリと覚えています。
起案し決済後に戻ってきた起案の書面は、多くの方の筆が入り、修正だらけの起案(決済されたもの)となりました。ゼロベース予算からの出発となったこの事業の契約締結にあたっては、支部長と市役所の話し合いを幾度も重ねました。これらは互いの歩み寄りと契約相手が信頼を寄せることが出来る相手だからそこの要望事項とその信頼を裏切らない努力により、任意団体であった支部との契約から始まったのです。

この一連の事案の取り組みが私の中で通り過ぎた当時の事です、当時支部長であった方から「今年から”公共嘱託登記土地家屋調査士協会”として契約を締結をさせて頂くことになりました。」との報告を受けてとっても嬉しくなったこと(今だと、ガッツ・ポーズをしています)を覚えています。今想うに、これら一連の事案での取り組みが、後の”公共嘱託登記土地家屋調査士協会”が生まれるキッカケになった、ということらしいのです。

それから現在に至るまで、公嘱協会なる団体が全国の都道府県に誕生しています。その事始めに、もしや関わったのであれば、本当にありがたいことであり、良い経験をさせもらったと思います。当時の支部長や上司が問題解決のために、新しい視野で既成のやり方にこだわらず、新しい事に挑戦する姿勢は、何かに迷っていた当時の私の背中をグイグイ押してくれるような存在だったように思います。特に職場ではある意味コワくもあり笑顔が素敵な身近で尊敬もしていた上司(所属長)は、あとにも先にもお目にかかることのない”人格の持ち主”でした。
当時の職場の雰囲気やこぼれ話については、またの機会をみつけて紹介させて頂きます。

#公共嘱託土地家屋調査士協会


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