ダイダイ色の恋に、敗北宣言
「一番廊下側の、前から6番目の席の彼女いるだろ?」
「後ろから3番目だろ?ややこしいな」
「ああそうだ。後ろから3番目の彼女。
あの子ひょっとすると、きっと君のことが好きなんじゃないかと思うんだ。
こないだの倫理Bで竹島が急に君のこと指して「この問題分かるか?」って言い出しただろ?
あの時の彼女、ピンクのチョークみたいに顔が真っ赤になってたんだ。」
急に何を言い出すかと思えば。
いち、にぃ、さん、しぃ...あの子か。
まともに会話したこともないぞまったく。
どうしたって彼女が僕のことを好きになるんだ。
「なあダイダイ、お前の言うことはたいていの場合正しいぜ。
こないだのテストもお前が言った予想問題がダーツみたいに的中した。」
「ああそうさ。竹島もびっくりしたろうぜ。このクラスだけ平均点が77点だったらしいしな。
にしたって気に入らないよな竹島のヤツ。
普段はお坊さんが念仏唱えるみたいに一方通行なクセに、居眠りしてる奴が8人以上になると決まって誰かを指して答えさせるんだ。
この8って数字の根拠だけどな」
「いいよ8の根拠は」
ダイダイの話は面白いけどすぐ脱線して迷子になる。
一度迷子になると戻ってくるまでに半日かかることもある。
普段なら僕もじっくり聞くのだが、今回はその例の彼女のことが気になったので本題を優先することにした。
「ダイダイ。竹島の話はいいよ。6番目の彼女について教えてくれ。」
「そうだったな。
まず人間にはミラーニューロンっていう神経細胞がある。
このミラーニューロンってのは、目の前の ”他人” のやってることとか、言ってることを、まるで ”自分” がやったり言ったりしてるかのように解釈する神経細胞なんだ。
あくびが感染るのも、このミラーニューロンが鏡のように他人の行動を自分の行動に反映させるからなんだ。」
「うん。それで?」
「いや、終わりだよ。」
「ダイダイ、それでどうして彼女が僕のことを好きってことになるんだ?」
「いいか?彼女のミラーニューロンが反応したってことは、つまりこういうことだ。
彼女は君のことを他のクラメイトよりも身近に感じてる。」
「.....」
「先生に急に指されたとき、君の心境はどうなった?」
「緊張したな。眠くて話なんか聞いてなかったし」
「そうだろ。
でもそんな時、指された以外のやつは対称的に安堵するんだ。
『ああ、自分が指されなくてよかった』ってな。
でも彼女は赤面した。赤のチャコペンみたいにな。
つまり彼女は君が指された現象を、まるで自分が指されたみたいに解釈したんだ。」
はあ。なるほど。
うーん。そうか。
まあ、一理あるか。ダイダイが言うんだから赤面したのは本当なんだろう。
でもそれは本当に僕と彼女自身を同一視したからなんだろうか。
第一、もしそうだったとして僕はどうすればいいんだ。
好かれてると分かったからって、こっちはなんとも思ってないんだ。
こっちから何かすることはないぞ。
そりゃそうだ。
彼女はイヤに物静かでいつもひとりだ。
顔が丸くて髪が短い。
鼻が小さくて、
物静かで、
まあ、少し....
なんだもう竹島が入ってきた。次は倫理Bか
「次はなんだ?」
「倫理Bだよ。
ほら、竹島が来た。」
「嫌だな。なんだってあいつはいつも5分前に来るんだ。
休み時間が半分になったような気分になる。」
授業が始まった。
竹島は今日から新しい単元だと言って、黒板の左上に白いチョークで
「構造主義」と書いた。
またややこしそうな話だ。
倫理Bはただでさえ興味がない科目なのに、ぶっちょう面で冗長な竹島の説明がいっそう退屈にさせる。
なんだか騙し絵を見せられてるような気分だ。
視界には入ってるけど、そこに焦点を当てさせないような構図を、意図して作画してるみたいで、どんどん話の輪郭がぼんやりしてくる。
ロボットみたいに板書を写して、竹島がピンクのチョークを持ったら僕は赤ペンに持ち替える。
最前列の3人がもう寝ていた。
僕の右前の人と、その右隣の人がうとうとしてゆっくりヘッドバンキングを始めてる。
後ろの方では誰かがすーすーと寝息を立ててるのも分かる。
ダイダイは先生の倍のスピードでノートを取っている。
先週急に指された僕は、今日は寝ないようにしようと思っていたが、そう思えば思うほど瞼が重くなってくる。
催眠術にかかったみたいにぼーっとしながら書いてたら、ハッと目が覚めた。ノートが端から端まで真っ赤になっていた。
シャーペンに持ち替えるのを忘れてまるまる赤ペンでノートを取っていた。
ダイダイの仕業だ。
ウトウトしていた僕が悪いけど、そう思った方が楽だった。
もういいやと吹っ切れた僕は右腕で方杖をついて眠ることにした。
僕とダイダイを入れて、合計8人が居眠りをした。
そして竹島が1番廊下側の前から6番目の彼女を指して言った。
「じゃあ...桜井。
ここで実存主義に対して、レヴィ=ストロースが反論に用いた最初の例が何か分かるか?」
アナログ時計のカチカチした針音と壊れかけのエアコンのフオンフオンという噛み合わない周波数が、時間を稼ぐみたいに必死で共鳴していた。
僕の顔はさっきまで広げてたノートみたいに真っ赤になった。
ダイダイなんてあんなにほっとしてる。
寝てた連中も音を立てずにムっくと起きて、板書の続きを書くふりを始めた。
みんなみんなほっとした顔をしてる。
僕だけだ。
僕の顔だけが真っ赤だ。
質問からもう20秒くらい沈黙が淀んでいた。
僕は手を上げようとした。
先生の質問もウンタラ主義もカタカナもさっぱりだが、これ以上放っておくわけにはいかない。
1秒毎に桜井の上に追加の重力が1gずつのしかかっていくような気がした。
ダイダイが「やめろ」と言った。
「でも....」
「黙って俺の言う通りにしろ。いいから」
「...」
でもこれは僕のせいでもある。
僕が寝て、8人目になったから竹島が桜井を指したんだ。
竹島は僕を指してるんだ。
ちゃんと数えて、僕が最後に方杖をついて眠ったのをちゃんと見てたんだ。
これは、僕が指されてるんだ。
桜井が指されてるけど、同時に僕が指されてるんだ。
そうだ。
僕が答えるべき質問なんだ。
よし。行こう。
そう決意して右手を肩の位置まで持って行った時、桜井が口を開いた。
「野生の思考です」
(ヤセイの...シコウ?)
「ブラジルでのフィールドワークをもとにして作った、構造主義の原点とも言えます。」
「ブラジルでのフィールドワークが、構造主義の原点。。」
手のひらに乗せて重さを測るみたいに、竹島はゆっくり復唱した。
その後、「うん。正解だ」と言った。
切腹するために抜いた刀を
ビビって鞘に戻すみたいに
僕は挙げかけた手を
ゆっくり下ろした
「ダイダイ。やっぱりお前の言うことはたいていの場合正しいな。」
「ああそうさ。8って数字の根拠を聞くか?」
「いや、それはもう分かったよ。」
文:ハスキーシベリア
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