日高屋20:20
1時間延びるだけでこうも外食しやすくなるのか。緊急事態宣言が解除され、東京の飲食店は21時まで営業できるようになった。夜自体がすこしだけ広がったような感覚だ。
日高屋に行くときは今もすこしだけ心が躍る。地元の福島にはなかったからだ。お台場のフジテレビ、浅草の仲見世、神田の古書店街……聞きこそすれ未だ到れぬ場所のひとつとして日高屋があった。さすがにもう日常の一風景だが、それでもパブロフの犬、あの筆文字の看板を見るだけで気分は高揚する。「日高屋は何を食べても日高屋の味だから嫌い」という人もいるが、私は好きだ。かつて憧れた味を求めて日高屋に向かう。それが美味しいかどうかは大きな問題ではない。執着と呼んだほうが適切だろう。化学調味料の巨塔は都会の象徴だ。
さんざ通ったので日高屋の攻略法はもう熟知している。「モリモリサービス券」は必須のアイテムだ。食後にもらえるこの券を次回の来店時に出すと、「麺類大盛無料」「ライス大盛無料」「味付玉子または温泉玉子半額」のいずれかのサービスを受けられる。これを使ったときも会計時にまたもらえるので、つまりは永久機関。企業の思う壺だろうが、だったらなんだ。踊らされていると知りつつ、なお踊ればよい。狂乱のさなかにいられるうちは踊り続けるまでだ。自分が落としたカネが誰かの手に渡りまた使われてを繰り返す、経済の大循環を感じろ。そうすれば百円玉の動きと共にこの東京と一体になれる。
モリモリサービス券を使って、汁なしラーメンを大盛にする。汁なしラーメンは元々ほかの麺類より麺が1.5倍多いが、券を使うことで2倍に増やせる。正式名は「汁なしラーメン(油そば)」であるものの、脂っけは少ない。多加水な麺と、まぁ肉だろうなと認識はできるチャーシュー。そしてメンマとネギ。どれもが乾いている。色合いも黄土色ばかりで、ネギの緑は錯覚さながら目に映らない。埃っぽい県道のような食べ物だ。いちおう温泉卵もついてはくるが、殻を割って入れたとてこの枯野はさほど変化しない。どれも有機物なはずなのに。
通常なら温泉卵しか付いてこないので、私は注文時にマヨネーズとニンニクも頼む。つまり裏メニューだ。小皿に盛られたマヨネーズはタージ・マハルのような美しい形をしている。いっさいの皺もなく、生まれてはじめてこれを見た人は艶やかな宝玉と見紛うだろう。本当は匙ひとつで簡単に崩せてしまうとしても。一瞬限りの輝きだ。一方のニンニクは完全にすりおろされていて、原形をまったく留めていない。本来ならマヨネーズよりニンニクのほうが水滴形をしているのだが、今はもう完全に崩れ、まだらな沼を小皿につくっている。内部の細胞が破壊されアリシンという成分が発生するため、ニンニクは刻むほどにすりおろすほどに臭くなる。たった今目の前にあるニンニクはまさに臭さの最終形態だろう。屈辱の代わり一矢報いようとしているのか。だがしかし、そんなニンニクも、そしてマヨネーズも、一緒くたに汁なしラーメンの中へと落とされ、混ぜられる。元々黄土色だった汁なしラーメンは、やはりクリーム系統のマヨネーズとニンニクが加えられ、その色彩の地味さをより一層加速させる。彩りなんてあったもんじゃない。匙で上へ下へと無思考に攪拌され、高脂質なひとつの塊と化すのだ。おそらく非常に暴力的なことを行っている。だとしても、悪と認識して遂行される悪は誰も止められない。
テーブル上の、カラーパレットが極端に偏った「食品」。そこへさらにブラックペッパーを振りかける。一振りや二振りなんかじゃない、脂ぎった枯野へ香辛料の雪を積もらせるのだ。かつて金銀と同じほどに重宝された「天国の種子」を、ゼロコンマ数秒のうちにどんどんと消費していく。これが雪ならば、排気ガスで真っ黒に着色された、大都会の雪だろう。そうして汁なしラーメンの表面をペッパーで覆ってからようやく食べ始めるが、数口後にはまた振りかける。ペッパーの刺激はすぐ消えてしまうのだ。醤油・ラー油・酢もあわせて注ぐ。分量とかそんな概念は無い。そこに卓上調味料があるから使うまで。もはや麺は調味料を食すための器でしかない。
食べているときの意識はいつも薄い。食事でなく咀嚼だからだ。ニンニクは適量をはるかにオーバーしていて、ただただ舌をしびれさせる。ブラックペッパーが追い打ちをかけてくる。たまにメンマの感触が歯茎に伝わる。さらにそれらすべてを、豊満なマヨネーズがかっぷりと包み込んでいる。やがて麺も具材も胃の中へ入れ終わり、どんぶりの中に淀んだ沼が現れる。元々汁なしラーメンの中に入っていた「汁」に、醤油やらラー油やらが加わった、「液」だ。よく見ればブラックペッパーが点々と浮いている。口へ入らずに麺の下へ下へと潜っていたのか。かつて数多の人々がこの香辛料を求めて海を渡ったのに、21世紀の今では無残な姿で溺れている。匙ですくって一口飲んでみる。うん、早死にする味だ。
食べ終わったあとは、体がどことなくだるい。あまり物事を考えたくない。レジで570円を支払い、モリモリサービス券を受け取って店を出る。道路の向かいにはマクドナルドがあって、その隣には回転寿司も営業している。生きているうちに食べられる量には限りがある。だとしたら、何を食べるかの選択は人生そのものをどうデザインするかと同じだろう。誕生祝いとして母が作ってくれたハンバーグも、インドの夜店で出てきた薄味のカレーも、風邪の日に独りで飲んだ玉子スープも、汁なしラーメンも、これまで食してきたものはすべてこの身に蓄えられ、自分の一部となっているのだ。西友でりんごジュースを買って帰った。