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実は存在していない、普段感じる「誰か」の目線

休日、誰と会う予定もないが、スーパーに行くのに眉毛だけは描く。

駅で服の裾に躓いて転んでしまった時、何故か恥ずかしいと感じる。

それは何故か?

私もそうだが、周囲に見られているかもしれないから、周りの人はこう思っているかも知れないから、という理由で羞恥心を覚えたり、居心地の悪さを感じたりすることは間々あるのではないだろうか。

折角だからお店では行儀良く振る舞いたい、通りすがりの誰かに、あの人かっこいいね、と思われたい…

ではその「誰か」とは一体誰なのか?

どうしてそのように考えるのか考えてみた時、ひとつの可能性に行き当たる。

私を見ている「誰か」とは、他でもない私ではないだろうか。

何故かといえば、他人からどう見られているか、どう思われたかはどこまでいけどあくまで自分の憶測であり、実際に証明することはほぼ不可能に近いからである。

全て私という人間がそれを想像し、他人の視線として有るものと認識することで、自動的に自己に向けた視線が他者のものに成り代わる。

これを活用した分かりやすい例は、やはり18世紀イギリスにて生まれた、パノプティコンではないだろうか。

近現代は、個人が浮き彫りになった時代とも言われる。
個性を重んじると同時に、孤独を感じる時代だとも。
誰かが私を見ている、と自身の視線を内包することで、自らを「私」という監獄に閉じ込めているのかもしれない。

だが監獄という比喩はあまりに窮屈だし、不自由だ。
別にこの視線から逃げ出すことが本当の自由なのかと問われると、それも唯一解ではないだろうと思う。

では窮屈でなく生活するのに、どのような感じ方をすれば気が楽か…について続きは明日に。
全編、ただの自論であることご承知おきください。

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