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忌まわしかった想像力 〜 うんざりな自分に白旗あげた〜


「なんでこうなの自分!」ってうんざりすることってありませんか?


ずっと付き合ってきた自分、
分かってるようでわからない自分、
穴の中に入り込みたいこともあるのに何年も変われなくて、そんな自分に直面するたびにまた自分がイヤになっちゃう。


わたしはというと、自分の真面目さが本当に本当にイヤで手放したくて抗ってきて、でもやっぱり無理で、
だけどだんだん、そんな自分を強みにやっていくしかないと諦めかけていたとき、背中を推してくれる言葉に出会った。


「会ったこともないその人のことを想像して、胸が痛むという感覚。この想像力や感受性の豊かさは、誰かが見落としてきたものを救い上げる力になるかもしれない」


この言葉が 過去のわたしのヒリヒリしたジレンマを癒してくれた、その話を。


この言葉を書いたのは、noteでも記事を書くライターのReiさん。
彼女の記事はこちら↓

https://note.com/satorei/n/ne8070d4eb7ab

どうやら周りも認める繊細さんの彼女。
自身の繊細さに苦しみ、どうその繊細さと生きるか、考えに考えてきたのだろう。

おそらく、ときにものすごく苦しみながら。



無視できない存在を感じて


中学生になった姉が、テスト前に勉強していた。

まだ小学生のわたしは、机の電気を灯して1人勉強している横で眠るのが忍びなくて、実はこっそり起きていた。

姉のことを思って起きているというのも恥ずかしくてバレたくないから

勉強が終わるまで寝たふりをしていた。

そして姉が布団に入るとわたしも安心して眠った。


少しずつ自分と他人の違いについて分かるようになってきた頃
自分がいかに恵まれているかを知った。

両親がいて 家族で暮らせる安全な場所があって ご飯が食べられる。

服もあるし学校にも行ける。

自分の未来を自分で決められると信じている。


他を知るとそんな自分が見えてきたのだ。


その、"他"はおそらくテレビで見たアフリカの子どもたちだったと思う。


わたしがこうしてお腹いっぱいご飯を食べている、今この時に
それがどれだけ必要でも欲しくても手に入れられない人がいる。


たまらなく平凡なわたし程度の境遇がないなんて、そんな由々しき事態があっていいのか。世界はなんてむごいことが起こっているんだ。


社会という存在に気がついた瞬間だった。


そんな状況を知ってしまったらもう無視できない。


ご飯を食べていたら
「食べられなくて死んでしまう人がいるんだよな…」


友達と遊んでいたら

「遊ぶどころじゃない人がいるんだよな…」


「お母さん」と呼べば

「お母さんがいない人はどうしているのか…」



そんなふうに、アフリカの子たちに思考がワープしてしまうようになった。


罪悪感みたいなものも出てくる。

自分の境遇に感謝しなければと思うけど、正直なところわたしには当然すぎて そこまで恵まれている気もしない。
感謝しなければ、という自分への圧もしんどかった。まだ若かった。


ずっとそんなんでは落ち着かないもんだから、10代になったばかりのわたしは、とにかくそんな気持ちから逃れて安心しかった。

だけど、想像力や問いかけは高校生になっても変わらない。

何もなくても胸が揺さぶられる思春期だ。
ただただ今を楽しんで 他のことなんて考えずに笑っていたいと思っていたのに。

常に、 "じゃない人たち"に気持ちが持っていかれる。



どうしてこんなに真面目に考えてしまうのか。

どうして一緒に友だちと馬鹿笑いしても心から笑えないのか。


きっと周りは「何も考えずに生きてて楽しそう」と思ったに違いないけど心のなかは沼というか嵐というか。


そんな自分が嫌でたまらないってのに。

ピアスをしてみたって髪を染めてみたってスカート短くしたって消えない真面目さ。


年齢を重ねるにつれ、なおも消えない この  "じゃない人たちを気にする自分”に慣れてきた。


根気強さに感服


「こんな状況おかしいよ」

「どうにかしたい」

「みんなそれぞれの場所で、自由で満ち足りていてほしい。せめて私と同じくらいは」


こんな思いが、沸騰した鍋の蓋のようにぐつぐつと私を揺さぶって知らせてくる。

同じ時を生きる人々が 自分の未来は自分で決められるくらいの境遇でいないと、わたしは安心できない。
そんな、遠くの知らない人々の状況をどうにかするには私という存在はちっぽけすぎるというのに。

勉強する姉の横で、ひとり眠ることができなかったように落ち着かない。



だからもう諦めてみた。

真面目な自分が嫌だけど何があってもブレない、その根気強い自分に感服。


就職しても 結婚しても出産しても離婚しても、生活が大変でも自分の願いは変わらなかった。自分が安心してハッピーでいられるようにしたいだけなのだけど。

ということで、自分を変えるのは諦めて、関心の強かった難民となった人に会いに旅に出た。


そうしたら心地よく生きられるようになった。

心と体がくっついた感覚。
「仲間だよ、忘れてないよ、あなたの幸せを願ってるよ」って
世界の関心を向けられない人に伝えられる状況になり、わたしは自分を生きている気がした。


それでもまだまだ未熟なわたしは、
この日本の小さな町をうずまく価値観に右往左往してしまうこともあり、
気持ちと周囲とのギャップに苦しくなることもある。


写真を仕事にしていると おしゃれな人たちに会うことも少なくない。

デザイナーさんやライターさんや、いろんなおしゃれな生き方をして

おしゃれな発信をして

おしゃれなものを選んで身につけている人たち。

かっこよくて眩しい、センスの塊のステキな人たち。


だけどもそんな人の中にいるとき、時々違和感に襲われる。

"じゃない方”の人たちへの気持ちだ。

うんざりする、逃れられない自分の真面目さ。

そんなこんなのところで 冒頭のあの言葉に出会った。


「会ったこともないその人のことを想像して、胸が痛むという感覚。この想像力や感受性の豊かさは、誰かが見落としてきたものを救い上げる力になるかもしれない」


読んで、「忌まわしかったこの想像力や真面目さは、わたしの道しるべかもしれない」

そう思えた。

繊細な彼女が乗り越えた軌跡が、わたしの生き方を掬ってくれている。


堂々と白旗あげて これが自分だと胸をはりたい。

そんな気持ちになった。

 


彼女が繊細だったから

繊細さと向き合ってきたから

文章を書く人だから

こうして私に届きました。


彼女のがんばりにありがとう。

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