名前というもの
同志の皆様、こんばんは。グループ名最後の日を過ごす私です。ただいま仲良しのフォロワーの皆様のスペースを心の支えにし、最後の夜にいます。
さて、グループ名変更に伴い、愚見ではありますが、これまでの私の知識と思考をもって、「名前」に関し拙論を述べます。
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名前とは存在である
この世のあらゆる事物は、どのようにして成り立っているのか。何でもいい。手に持ったスマートフォンでも、おやつのおまんじゅうでも、遥か遠くのエッフェル塔でも、この世の果ての誰も知らない星も、今ここにいるあなたも。
私の理解では、事物は、世界と境界線を引かれることで成り立つ。外界と明確に隔たる何かをもってして、その物として存在するのだ。
昔、人間は皮膚を境に世界と隔たって成立するという話を聞いた時、「皮膚にそんな機能が……?」と訝しんだが、なるほど人間の境界線は皮膚だ。スマートフォンはガラスの画面と金属の外装によって、おまんじゅうは皮なり包みのビニールなりを皮膚として、その物としてそこに在る。
では、目には見えないもの、概念上はというと、それも同じである。あなたが好きなもの、嫌いなもの、あらゆるものは、他と区別されることによってあなたの心の中に形作られている。
私たちは他ならぬ「 」を世界でたった一つ見出した。それは直接的な形としてこの世にはないが、名前を世界とのよすがとして、私たちの心に、あるいは世界に光をもたらしていた。名を呼ぶことは、心中でグループの輪郭をなぞること。名前を呼ぶ行為によって、その形を形として認識して、私たちは愛している。
名前が変わるということ
望んだ経緯ではなくとも、変更を決めて走り出したからには止まらない。「 」がこの先、実際のものとして更新されることはない。記念の年、記念すべき区切りのシングル。それらを讃えた今日までで、歴史としては終了してしまう。
それは、ただ音として名前を呼べなくなるということではない。これまで愛してきたものの拠り所としての名前を失ってしまうのだ。悔しい、悲しい、辛い、受け入れられない。それは喪失への感情に他ならない。
これから私たちは、どうしたらいいのだろう。
喪失を受け入れる方法は、教われないし明確に決められもしない。ただ各々向き合うこととなる。
しかし、それにのみ心ゆくまで向き合う訳にもいかない。社会はもちろん、個々人の生活でも、同じだけの時間が進んでいってしまう。
私の出した一旦の答えは、改めて名を失った裸の彼らを見ることである。言い換えれば、ただ内実を見れば良い。
どういう所が好きか?どんな所に魅了されてきたのか?辛い時や悲しい時、どのように勇気づけられてきたのか?それらを改めて見つめれば良い。
普段は、理由の言語化など追いつかないほど、目まぐるしく愛を注いでいることが多い。しかしその理由を、どうにかして言葉として意識する。
私たち人間は、思考することが出来る。言葉によって物事を理解することが出来る。名前が世界を区切るように、曖昧とした莫大な喪失感も、それを超えるほどの壮大な愛も、言葉という手段によって解することが出来る。
喪失も愛も、なぜそうであるのかを、自分のものとして優しくなぞってほしい。確かめてほしい。あなたにとっての「 」を、輪郭が曖昧になる今だからこそ、見てほしい。私もそうしたい。
例え名前が変わろうと、永遠に変わらないものは絶対にある。だから好きなんだと気づきたい。
変わって、これから
私たちは、愛するものの内実と、それに対する自らの気持ちを確かめることによって、変わらぬものを見出し、変わらぬ愛を注ぐことがきっと出来る。あるいは多少変わっても、本質的には何も変わらない。
しかし、この世で彼らの輪郭が変わったことを注視するものがどれくらいあるか。
そもそも、物事を内側を丁寧に見つめることが出来る人がどれほどいるのだろうか。あるいは私たちも、常日頃それが出来ているわけはない(人間はそういう風に出来ていると思う。だからこそ、本気でものを見る時を自分で決めなければならない)。
世界は、名前が変わることによってその内側を確かめなどしない。彼らは、私たちは、新たになった輪郭をもってして、世界と新たに関わっていくこととなる。
応援するしかない。世界を照らす彼らが世界から新たな輪郭で喝采を浴びることを応援しよう。私はそう思う。