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Chapter-4① キミちゃんインタビュー「人生初のゲイバーが8番館。おかあさんは、菩薩のような方です。」

8番館の永きに渡る常連であり、今は住吉でも老舗となったゲイバー・FORWARDのオーナーでもあるキミちゃんのお話を聞かせていただきました。

おかあさん愛に満ちたお話はもちろん、住吉のゲイタウンを盛り上げた人々の思い出話も興味深く、軽快な話しぶりに時を忘れて大笑い。FORWARDに通える方が、とても羨ましくなりました。

閉店間際の8番館にておかあさんとのツーショット。(画像提供:キミちゃん)



長崎からの、ゲイデビュー。

童顔隠して、スーツ着て。

―8番館に初めていらっしゃったのは、いつですか?

「18歳の頃でした。生まれて初めて連れて行かれたゲイバー2軒のうちの1軒が、8番館でした。まだ梅子さんはいなくて、長崎出身のヒロシさんという方と、ママ(おかあさん)だけがいました。

当時の僕は長崎の短大に通っていて、ゴールデンウィークになけなしの金を握りしめて、ゲイデビューをしに福岡に来たんです。

当時は、長崎にもゲイバーがあるなんて知らなくて、ゲイ雑誌の後ろのページは福岡のお店の広告ばかりだったから、福岡に行かなければゲイデビューできないと思い込んでいたんです。

ゲイ映画館がハッテン場的な場所とも知らず、ただゲイ映画を観たくて、中洲のオークラ(編集注:福岡オークラ劇場。2006年5月に惜しまれつつ閉館)を目指しました。その時の来福目的は、ゲイ映画を観ることと、ゲイショップでAVを購入することだけでした。

オークラでは、客席は満席。後ろにも立見の人がわーっと寿司詰め状態で立っていて。前に行けないから僕も仕方なく後ろの方に立っていたら、知らない人が代わるがわるに触ってくるんで、びっくりしました。

でも、僕も触られっぱなしのタイプじゃないから、ん?と相手を見て、好みじゃなければ『違う違う』って振り払って、タイプだったらもっと触ってもらいたいなと思ったりして。


そしたら、その中のある一人の人から、チューインガムを差し出されたんです。意味が分からず『これって何かのお約束ごとなの? もらったら“いいよ♡”って意味なの??』とかいろいろ考えちゃって、それからは映画そっちのけでガムをじーっと見ていて。

結局、別にガムはただのガムで、深い意味なんてなかったんだけど(笑)、くれた人から耳元で『外、出ようか』って言われたんです。

その時の本音は映画も最後まで観たいし、映画の後には“薔薇族ショー”っていう若者のストリップみたいなショータイムもあるらしいから、内心それも楽しみにして来てたんだけど、瞬間、目の前で出会った人のほうが大切に思えて、誘われるままに外に出ました。

当時はインターネットもないし、模索しながら情報を得ていたから、とにかく出逢いが貴重だったんです。

映画館から僕を連れ出した相手は、ちょっと年上の学校の先生でした。僕は学生だし、初めてだし、慣れない中洲で出逢ったばかりの相手ってやっぱり怖いから緊張してたけど、相手の方も気遣って、いきなりではなく、最初はファストフード店で打ち解けさせてくれました。

あとはね、することはしましたよ、それが初体験でした。


二日目はもう一つの目的だった、ゲイショップに行きました。当時は19歳ですし、僕は高校生に間違われるほど見た目が幼かったから、アダルトショップで『キミ、だめだよ』なんて止められるのは嫌だなと思って、なるべく大人っぽく見せるために、短大入学時にいただいたお祝いで一着だけ買ったスーツを着て行きました。

ドキドキしながら入ったゲイショップでは、店員のヒデオさん(仮)っていう人が、『こういうところ、初めてですか?』って優しく声をかけてくれて。

『どういうのがタイプなんですか?』って訊かれたから『一応買うのはこれに決めてるんだけど、こっちも観せていただいていいですか?』って言ったら『あーなるほど、正統派ねー!』なんて言われて(笑)

お店の名前は ゲイショップぶどう屋 さんでしたね。他に あんず屋 さんというお店もあったな。
当時のAVは高価で、ノンケのだって60分のビデオが13000円くらいしました。ゲイものはさらに高かったから、相当吟味しましたよ。

ぶどう屋さんには、ヒデオさんのお友達がいっぱい来るみたいで、その時一人の小柄なお友達が来店されて、ヒデオさんが『この子、こういうとこ初めてみたいよ』と、引き会わせてくださって、その方の目がキラッと光ったんですね。

『何、じゃあゲイバーとか行ったことないの?』
『ゲイバーって何ですか?』
『そういうお店があるんだよ。お酒飲める?』
『飲んだことはありますけど』
『じゃあ行こう!』と誘われて、まず くらけんというお店に連れて行ってもらいました。

『酔ったらどんな風になるの?』
『いや、そんなに変わらないです』
『じゃあもう一軒行こうよ!』と連れて行かれたのが、8番館だった。

そのとき『あんまり自分のこと、何でもかんでも言っちゃいけないよ。住所とか、本名とか。この世界、悪い人もいるし、こわいからね』と教えてもらいました。

僕は嘘をつくのが苦手なので、変なあだ名をつけられるのも何だから、『じゃあキミでいいです』と自分から言いました。だから僕がキミちゃんになったのは、8に行ったその時からなんです。」


8番館を糸口に始まった、

長崎と博多の二重生活。


―その時の8番館は、どんな様子でしたか。

「その日の8番館はお客さんが多かったけど、すごい人数のお客さんを、ヒロシさんとおかあさんの二人で回していました。

このヒロシさんが、すごい人で。“ながら人間”です。しゃべりながらドリンク作って、口と手がずっとバラバラに動いて、常にものすごいスピードで仕事をさばいてて。


長崎からゲイデビューして来た僕に、ヒロシさんが『わたしも長崎出身よ!』って言ってくれました。『長崎にもこんなお店があればいいのに』と言うと『あるわよ!』。

僕が『長崎のゲイバーでバイトしたい』と言ったのか、ヒロシさんが『長崎にバイトを探しているゲイバーがあるのよ』と言ったのか忘れましたが、その場でお店のピンク電話にチャッチャッチャッと10円玉を入れて『バイト見つかったわよ!』って。

その電話の相手は、ヒロシさんの元カレのリンダさん。長崎で当時のバンバンっていうゲイバーをやっていた方です。

これには経緯があって、もともと長崎にはチキチキというミックスバーがあったんですね。

当時、博多にいたリンダさんは、ヒロシさんと別れた後に魚市場で働いていたけれど、飲み屋でワーッと周囲の人を笑わせるようなことができる人気者だったから、それを聞きつけたチキチキの当時のオーナーさんが『長崎でゲイバーをやらない?』とリンダさんに声をかけて、チキチキに続く2店舗目としてバンバンをオープンしたんです。

だから、ヒロシさんの元カレのリンダさんが、長崎でゲイバーをしていたわけです。僕はそこに紹介された。


でも、実はそれはタイミングが悪く。バブル時代だからオープン直後からバンバンはボロ儲けだったみたいです。それを見て『そんなに儲かっているなら、来月から家賃を倍にしても良いよね?』と言い出したオーナーさんに、リンダさんがキレちゃった。

『いきなり家賃が倍なんてあり得ない! もうバンバンなんか辞めて、博多に帰る!』とリンダさんが言い出した、僕が紹介されたのはそんなタイミングだったんですね。だから、せっかく地元長崎のゲイバーにバイトとして入れた2ヶ月後に、リンダさん経営のバンバンは閉店してしまいました。(注:今もBANBANは引き継がれて営業されております)

とは言えこれが、今の僕につながるご縁になったんですよ。
その後、福岡でプライバシーというお店を開いたリンダさんが、『週末だけバイトしに来てくれない?』と連絡をくれたので、長崎の短大に通いながら、週末3日間だけ博多で過ごす生活になりました。

短大に通いながら、授業のない金曜日の昼間は長崎のホテルでバイトして、バイトが終わりその後すぐにかもめに乗って博多に来て、19時から夜中または朝までお店で働いて、リンダさんの家に泊まって、そのまま土日もプライバシーでバイトして、長崎に帰る。そんな日々です。


19や20歳だからできたんですね。お店の日給は5000円、交通費は別途8240円きっかり。週末の3日間で15000円もらって、当時、周囲の学生よりは少し良い暮らしかな。友達によくおごっていました。

当時楽しかったか? 楽しいと言うより、与えられたことをこなすのが良いのかなと思っていましたね。」

(後編へつづく)

※キミちゃんprofile:1969年長崎県生まれ。 1995年博多区住吉にバーBROS,をオープン、1996年にFORWARDをオープン。 1995年に創刊したゲイ雑誌『G-men』のグラビアに登場し人気を博し、「第二回ミスターG-menグランプリ」に選出される。その後ゲイナイト「男祭」を主催及び数々のイベントにも出演。現在はゲイバーFORWARDに加えてゲイマッサージ癒ら蔵も営む。

雑誌『G-men』のグラビアを飾り注目を浴びていた頃のキミちゃん。


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