Chapter-2 コウさんインタビュー 33歳の年の差カップルが、30年近く寄り添っている理由。
おかあさんと交際29年になるという、恋人のコウさんにお会いすることができました。大学生の頃に連れて行かれた8番館でおかあさんと出逢い、それから始まった長いお付き合い。
今も、介護施設にいるおかあさんから一日何度も電話がかかってくるほど、会話の多い仲良しぶりを、インタビュー中も見せていただき、終始和やかな時間でした。
第一印象は「怖い」「気持ち悪い」。
初めて受けるオネエ言葉の洗礼。
―おかあさんとの初対面のことを教えてください。
「僕は、今もそうですが、当時からクロゼット(周囲にカミングアウトしていない)ゲイなので、映画館は当時、相手を探す唯一の手段だったんです。
それでたまに行っていた中洲の映画館オークラ※で、当時ブイブイ言わせていた遊び人のソノちゃん(仮)というおじさんと知り合い、連れて行かれたのが8番館でした。
まだ24歳だった僕には、ゲイバーに行くのはハードルが高かったんですが、ソノちゃんにお店を教えてもらってからは、映画館に行くことはなくなりました。
でも、紹介いただいたゲイバーにも、一人で行く勇気はなかなか出なくて、初めて一人で行ったときは、お店の周りを3周くらいぐるぐる回ったことを覚えています。
思い切って扉を開けると、満席のカウンターにいるお客さんが一斉にガッ!!とこちらを見るし、じろじろ品定めされる。ドギマギしました。
当時のゲイバーは、相手を見つける場所!という感じ。今はインターネットで出会える時代だから、お店はあくまでコミュニケーションをする場所になっていますが、あのころはみんなギラギラしていましたね。
その頃の8番館は、入り口に向かって尖る形のV字型のカウンターだったから、ドアの方を一斉に振り向かれると、入ってきた僕からは、全員の顔が見えるんです。すごく怖い(笑)
橋本さん(おかあさん)は初めて会った時『アラー、ガッシリしてるわー』と言って抱きついてきました。生まれて初めて聞くオネエ言葉が、最初は怖かったです。慣れたら面白くなって、それがすごく好きになったんですが。」
―8番館は祇園町にオープンし、その後、住吉2丁目のひょうたん池横、住吉4丁目と移転しましたが?
「初めて行ったのは、2丁目ひょうたん池横のお店でした。人に2回連れて行ってもらった後、3回目からは一人で行くようになりました。
大学卒業後は大学院に進み、院生時代は城南区から自転車で週2~3回通いました。」
―お付き合いを始めたきっかけは?
「行くたびに可愛がってもらえて、半年くらい経ったころ、閉店後に『一緒に歩きましょう』と誘われてそのまま近くの橋本さんのマンションに寄って、それからです。それから長いこと、小さな喧嘩はするけれど、何日も会わないことは今まで一度もありません。
橋本さんには『あたしはせっかちでシャンシャンしてて、あんたはおっとりしてるからちょうどいいのよ』とよく言われていました。」
―初めて行った頃のお店のスタッフさんを憶えていますか?
「橋本さんがフロアを周り、ウメ子とマチコさんがカウンターを担当していたと思います。マチコさんはガサツなお姉さんという印象で、それから2年後に、清川にホワイトベアというお店を開いたけれど1ヶ月で潰れて、東京へ行きました。
10年くらい前に帰って来たけれど、4~5年前から全然姿を見なくなりましたね。どうしているんでしょうか。マチコさん、今は70代のはずです。
ウメ子はキムタク似のめちゃくちゃ男前で、話も面白くて人気がありました。博多初のドラァグクイーンでもありましたね。
橋本さんは一度ウメ子に店を任せて、自分は大ママ的に週末だけ顔を出すようになったんですが、途端にウメ子がルーズになって、お店を借金だらけにして逃げたんです。
歳の近いウメ子とはそれまで仲良くて、お店が終わってから二人で飲みに行ったり、クリスマスには一緒に女装したりして遊びましたが、僕はあまり美形が好きじゃないので、付き合うという感じにはなりませんでした。
昔から僕は、年上好きの老け専で、フランキー堺みたいな33歳年上の橋本さんのほうが好みでした。」
―おかあさんの家族関係のお話など、ご存じですか?
「いちばん仲の良いお姉さんが福岡へいらっしゃった時、お会いしたことがあります。橋本さんは6人きょうだいの末っ子で、このお姉さんは10以上年上だそうです。
お姉さんは、表向きは橋本さんがゲイだということは知らないことになっていましたが、多分ご存じだったと思います。一緒に外出したとき、急に『お米買ってくる』といなくなった橋本さんのことを『あの人、女みたいやわ』と言うのを聞いた時、ピンと来ました。
橋本さんも、『姉は多分分かってるけど、言わないのよ』と言っていました。ご家族ではこのお姉さんとだけ、仲が良かったみたいです。
お姉さんがもう一人いたとか、上のお兄さんは戦死したとか聞きました。実家は高松の自転車屋さんだそうです。」
―過去の恋愛については、何かお聞きになっていますか?
「昔、ゲイも変態も一緒くたの『風俗奇譚』という雑誌があって、それの文通欄がゲイたちの出会いの場だったそうです。橋本さんは、そこで出逢った大阪の人と文通して、10代で家出をしたそうです。
そこで、その時の交際相手と一緒に睡眠薬を服んで自殺未遂をしたと聞きました。二人とも死ななかったけれど、橋本さんは高松に連れ戻されて、でももう一度大阪に行って丸紅の倉庫で働いた。
その時に、また別の文通相手のことを好きになって、その人を追って福岡に来て、ちょっと付き合ったけれどすぐに別れて、お友達になったと聞いています。
福岡に来た当初の橋本さんは、中洲のヴィレッジという喫茶店で働いていたそうですが、ゲイのスタッフがいるという噂を聞きつけたゲイのお客さんがヴィレッジに集まるようになり、皆さんにとても好かれたことで、その後、独立して8番館を開くことになったそうです。」
前向きで努力家。
強い情熱で店を成功に導いた。
―8番館をオープンしたら、すぐにヴィレッジ時代の常連さんで賑わったのでしょうか。
「福岡に天神映劇というハッテン映画館があって、そこのロビーで橋本さんが日々、一人でできたばかりの8番館の名刺を配っていたと、古くからの常連の方から聞きました。
昔は映画館が、ゲイの人が初めて出逢いを求めて行きやすい場所だったんですね。橋本さんは、その映画館から出て来るお客さん一人ひとりに『よろしく、よろしく!』と言いながら、名刺を手渡し、一生懸命営業をしていたそうです。
前向きで努力家です。本人はお酒を一滴も飲めないのに、九州に当時一軒もなかったゲイバーを成功させたのは、その情熱だと思います。
ママから直接手渡された名刺を持っていれば、初めてのお店にも、一人でも行きやすいですからね。
橋本さんは、永いご縁をとても大切にしている人だと思います。40年以上の常連さんたちと、今も連絡を取っているし、施設に入った橋本さんを心配して、僕に電話をくれる人もいます。
今は1週間に一度、ガラス越しに電話で話すだけですが、橋本さんのマンションは、今も薬院にあります。橋本さんは『あんたが住みなさいよ』と言ってくれますが、僕は仕事が遠方なので、今まで薬院に住んだことはありません。」
―お店が50年も愛され続けたのは、どうしてだと思いますか?
「橋本さんの話が面白いことと、ギスギスしないこと。あと、がめつくないからだと思います。お客さんにおねだりをしない主義で、ウメ子はよくお客さんに『ねえ奢って、飲ませて』と言っていたけれど、橋本さんはそのたび『やめなさい、みっともない!』と叱っていました。
ウメ子は『私がこの店の売り上げを上げてるのに』と言うけれど、橋本さんは『私はおねだりしないでこれまでやって来たんだから、ウメ子にもそうして欲しいの』と。
お客さんのほうから『おかあさん、何か飲んでください』と言われても『そんな気を遣わなくていいのよ』と言うし、何度も勧められてやっと『じゃあ一杯だけいただくわ』という感じ。
『目先の一杯よりも、ずっと永く来てくれる方がうれしい』とよく言っていましたね。『お金を貸す時はあげるつもりで貸す』とも言っていて。とにかく、気前の良い人です。」
―お客さんとトラブルになったり、事件に巻き込まれたりしたことは?
「橋本さんの家に転がりこんで来た男が、1週間くらい泊まり込んでしまって、ある日、橋本さんが仕事から帰ったら、家財道具全部持って行かれていたことがあったらしいです。公園で泣いたって言っていました。
お客さんとのトラブルは、聞いたことがないなあ。街全体で夜の営業時間を制限されたことがあって、8番館の閉店が遅すぎると、警察に始末書を書かされたことがあったらしく、それ以来、警察のことは『オマワリ』と呼んで嫌っていましたけどね。
8番館とは無関係な、近隣で起きた事件の事情聴取で警察官が店に来た時も、『オマワリが来た』と嫌ってバックヤードに引っ込んでしまいました。
付き合い始めてからもお店には客としてよく行きましたが、至って穏やかでトラブルもなく、お客さんにヤキモチを焼かされることも、一度もありませんでした。橋本さんは枕営業も全然しないし。」
引退後のお二人は
コロナ禍に阻まれながらも密だった。
―8番館を閉められてから、その後の暮らしはいかがですか。
「施設に入る前は、当時の僕は筑紫野に住んでいたので、平日は僕の仕事終わりが早ければ、橋本さんに薬院から電車で来てもらって二日市で合流、晩御飯を食べて買い物に行って、車で薬院のマンションまで送るという生活でした。
週末はドライブに行ったりとか。デートというより本当に、家族みたいな感じです。
その後、橋本さんの体調が悪くなったことがあり、心配でたまりませんでしたが、一度入院した時に、自分から施設に入ると言い出しました。
食事管理をして、薬を目視で服ませてくれる人がいる環境で、運動機能も維持するにはそれが良いので、本人の希望のまま施設に入ってもらいました。
でも、会わない日も毎日毎日、何十回と電話がかかってくるんですよ。長電話はしない人なので、言いたいことだけ言って数秒で切れることも多い。
仕事中にもいっぱい着信が入っていて、最高38回入っていました。すごくせっかちなんですよ。何か思い立ったらその瞬間に言わないと気が済まない。
そんなせっかちな人が、こんなにのんびりした人間と付き合っていて、イライラしないのかなと思うんですけどね。いつも『日が暮れるわよ!』と言われます(笑)」
―施設でもオネエ言葉なんでしょうか。
「本人は『オネエ言葉なんて話してないわ』って言ってますけど、まぁ話してますね(笑)。前に面会に行った時『多分もうバレてるわ』って言ってました。『面会に男しか来ないから、おかしく思われてるはずよ』とも。
施設の方は皆さんプロで大人ですから、気持ちよく対応してくださっています。
スポーツジムに40年以上通っていました。以前はインペックス、そこが閉店してからはKONAMIスポーツに変えて。橋本さんはどこへ行っても、行った先ですぐに人気者になるんですよ。
入院した時、ジム仲間の女性たちがたくさんお見舞いに来てくださいました。僕がたまたま居合わせると、橋本さんは僕のことを紹介するんですが、『息子です』と言ったり『甥っ子です』と言ったりする。
ある方からは『甥っ子? この前は息子って言わんかった?』と突っ込まれてましたが、『どっちだっていいわよ!』と(笑)
お店や橋本さんの周囲のおおらかさに反して、僕の職場はいまだに旧態依然としていて、『ゲイは自然に反している』なんてセリフが聞こえるような業界なので、僕は今も変わらずクロゼットです。若い人は変わって来ていますけれどね。」
―
長いインタビューをさせていただきましたが、その間に何度もおかあさんからの電話が鳴っていました。「どうぞ、出てください」と言うと、本当におかあさんは思いついたことを一言、二言早口で言ってすぐに切ってしまうご様子。
「え? ヴィレッジ? あ、もう切れた」と言うコウさんの様子に、終始笑わせていただき、大変楽しい時間になりました。
コウさん、ありがとうございました。
※オークラ劇場/中洲にあったポルノ映画館。一つの建屋の中にオークラ1とオークラ2という二つの劇場があり、1は一般向けのロマンポルノなどを上映、2はゲイ向けのポルノ映画を上映していた。週末には映画だけではなく「ヤング薔薇族ショー」という男性ストリップショーが開催されることもあった。 ネットのない時代には貴重なハッテン場(男性同性愛者同士が出会う場所)として、映画館が重要な役割を果たしていた。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?