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コミュニケーションとはキャッチボールである。
スピード、リズム、持続力は、人によって異なる。幼児についての研究でも、スピード、リズム、持続のパターンは、指紋のように異なることが明らかにされている。言い換えるならば、人はすべて固有のスピードをもち、そのスピードを自ら変えられることを必要とする。同時に、固有のリズムをもち、固有の持続力をもつ。自らのものではないスピード、リズム、持続力を強要されることほど、あるいは(機械的な)一定のスピード、リズム、持続力を強要されることほど、人を疲れさせ、抗わせ、いらつかせるものはない。人はみな、それらのことに耐えられない。
ドラッカー『マネジメント』p234-235
コミュニケーションとはキャッチボールであるというのは、別に私がいいだしたことではない。
人の人間関係とは、言葉や態度による、エネルギーのボールを投げあっているようなもので、
こちらが投げたボールを、相手がキャッチして、投げ返してもらうというただそれだけのことが、「人間関係」のほとんどだと言っていい。
アドラーは、「悩み」とは「人間関係」が100%だというようなことを言っていた。『嫌われる勇気』によると。
とすれば、コミュニケーションのキャッチボールが上手になりさえすれば、つまり技術さえ身に着ければ、人の悩みは解決可能だということになる。
しかし、キャッチボールも簡単ではない。
剛速球を投げる野球選手もいれば、剛腕で鉄球を投げてくる者もいる。それをナイスキャッチできるというのは、こちらにも相当な精神のフィジカル的な強さが必要だ。
ボールにも温州ミカンくらいの柔らかさのものもあれば、ピンポン玉みたいのもあり、ソフトボールもあれば、モーニングスター(トゲのついた鉄球)みたいのもある。
ふわっと投げられた、丸まったウサギなら、ふわっと受けとらないと殺してしまう。
ふわっと投げられたのが鉄球なら、こっちの手首が相当強くないと落としてしまう。
相手が最初に投げてきたボールによって、相手のこちらに対するスタンスはおおよそ分かる。
超攻撃的な態度や露骨な挑発、こちらの声掛けに対する無視が、敵意以外を表していたら驚くし、
かすかなアプローチに気づかなかったばかりに、それがこちらの粗相になることもある。
コミュニケーションの奥義は、相手のスピード、リズム、持続力を把握することだ。そのパターンに幅広く対応できる運動神経とリズム感、スタミナを持っておくことだ。
コミュニケーションは、体力なのだ。