映画 名もなき生涯 感想(約2000字)
「正しさ」とは、誰が保証するものであるか。
自分が「正しい」と考えてやったことであっても、自分とは違う「正しい」を持つ人から見れば「正しくない」に分類されることはよくある。
悪役を倒す正義のヒーローだって、その悪役の世界からすれば自分たちの仲間を攻撃する「悪」になる。
つまり、「正しさ」、「正義」というのは見る角度によって往々にして変化するものなのである。だから、「絶対悪」もなければ、「絶対善」もない。というのが、社会に生きる私たちの大方の結論であるように思う。
しかし、「絶対善」はさておき、「絶対悪」は確実に存在する。それに私たちは気づくことが不可能であるだけだ。
それを表現できるのはおそらく、小説や映画、絵画といった、芸術的作品だけであるということに私は「名もなき生涯」を見ることで気づかされた。
初・新宿シネマカリテで見た映画「名もなき生涯」は、とても良かった!
映画に最近ハマっている私は、友人との会話の中で新宿シネマカリテの存在を初めて知った。新宿駅東口から歩いてすぐのところにこんな映画館があったとは、感動した。地下へと続く階段を下ると、そこには隠れ家のような雰囲気の映画館があった。私は前日にネットで調べた「名もなき生涯」を見ることに。「名もなき生涯」の舞台は、第二次世界大戦期のオーストリア。ナチスに支配されたオーストリアは、ナチスにより強制的に戦地へ招集されるようになる。主人公のフランツもそのうちの一人であった。しかし、フランツは「罪なき人は殺せない」と考え、兵役を頑なに拒否。周囲の人々はそんな彼を見て、「敵よりひどい、裏切り者だ」などと非難し、彼を含めた家族は村の中で完全に孤立した。招集状が届いてもなお、信念を曲げなかったフランツは、自ら出頭し、最後まで戦うことを決意した。
根源的「悪」=戦争、全体主義
「負けちゃダメ。善人は勝つと信じなきゃ」
「名もなき生涯」のテーマは「善」と「悪」。そして、「悪」との闘いである。
冒頭で述べた通り、「善」と「悪」は絶対的なものには見えない。戦争にしたって、何かしらの正義の元で行われる。それが、祖国を守るためであったり、テロの脅威を潰すためであったり、理由は様々であるが、相対的な「正義」の元に行われている。
しかし、この映画は戦争を相対的な「正義」として表象するのではなく、絶対的な「悪」として表象することに成功している。ここがこの映画の一番すごいところだ。
戦争はいかなる理由で行われようと「悪」である。
それが、フランツの生涯から見える。上辺ですらヒトラーに服従しないフランツの生涯は、戦争という根源的「悪」との闘いそのものだった。
最終的に死刑となったフランツは、最後まで根源的「悪」と闘いきった。つまり、闘いに勝ったのだ。映画の最後に流れる台詞は、まさにこの映画のすべてを表す言葉。ぜひとも、それに注目していただきたい。
なぜフランツは信念を曲げることはなかったのか
なぜ、フランツがここまで信念を貫くことができたのか、言葉だけでも忠誠を誓わなかったのか、その理由についてはさらなる考察が必要である。
私なりのここまでの見解を述べるとするうえで、印象に残ったフランツのセリフがある。
「手足は鎖につながれていても、精神だけは自由だ」
この映画には、フランツとは対照的なヒトラーに言葉の上では忠誠を誓った軍人や民衆が多数出てくる。彼らが「悪」であるか、と問われれば決してそうではない。彼らは相対的な「正義」の元でヒトラーに忠誠を誓っている。そうして、彼ら自身、家族は手足の自由を得ることはできた。精神の自由を失う代わりに。
フランツは手足の自由を失うよりも、精神の自由を失う方がつらかった。だから、彼は最後まである意味において一番自由な存在だったのかもしれない。
「名もなき生涯」と村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」
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「僕は逃げられないし、逃げるべきではないのだ。それが僕の得た結論だった。たとえどこに行ったところで、それは必ず僕を追いかけてくるだろう。どこまでも」(第二部p.327)**
この映画を観ていて感じたのは、村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」と作品のテーマが非常に似ているということだ。
「名もなき生涯」以上に、解釈の幅が広い作品であると思うが、私は「ねじまき鳥クロニクル」も根源的「悪」との闘いの小説であると解釈している。
そして、フランツ同様、主人公の僕(岡田亨)は最終的に根源的「悪」との闘いに勝利するのである。闘い方、闘う相手は具体的に違うものの、「悪」と闘っていたという点において、この二つの作品は非常に類似している。未読の方はぜひ読んでほしい。
私が感じたのは、根源的「悪」を描くことができるのは小説や映画、絵画といった芸術作品なのではないかということだ。「善悪」に相対性が生まれる現実に絶対「悪」を見出すということは不可能である、というのがこの二つの作品から得た持論である。
それを知覚し、感じることができるのは芸術作品だけであり、その作用こそが芸術の1つの役目なのかもしれない。