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【エッセイ】高校時代★バイク小僧挫折編

#エッセイ #バイク小僧 #死ぬかと思った話  

生きててよかった

1992年1月。
高校一年生の冬、私はバイクで事故を起こしてしまった。

夜の11時過ぎ、ガソリンスタンドでのバイト帰りの出来事だ。

通り慣れた国道を60km/hほどで走行中、前方左側の路側帯に停車していた1台の乗用車の横を通過しようとした時だった。

その車がウインカーを出すこともなく動き出し走行車線に進入してきた。

私は咄嗟に避けようとしたが当該車両の右前方に接触し転倒してしまった。

その弾みで対向車線にバイクが転がり滑り、その後を私が転がり滑るような形で止まった。

対向車線を滑った距離は約四十メートル。
被っていたフルフェイスのヘルメットも脱げていた。

幸い対向車のトラックはその直前で止まってくれたので二次的な事故には至らなかった。

ぶつかった車の運転手さんがすぐ救助に来てくれた。

私はショック状態だったが意識もあり自分で倒れたバイクを引き起こして路肩に寄せた。

わが自慢の愛車を見るとフロントフォークは歪んでおり、エンジンのクランクケースは割れてエンジンオイルがアスファルトを黒く濡らしていた。

体のどこが痛いのかその時は分からず、路肩に座ってパトカーと救急車が来るのをボーっとして待っていた。


この時、あろうことか実に愚かで身勝手な事を考えていたのだ。

ー ヤバい、これからどうなるんだろう。学校にバレたらサッカー部もクビかな。

しばらくは呆然自失で自分の身に何が起こったのかよく分かっていなかったのだと思う。

しかし時間が経ち、少しずつ我に返る。
そして事故の恐ろしさに急に体が震えてくるのを感じ涙があふれてきた。

ー それより俺、死んでたかもしれない・・・。

バイク馬鹿につける薬なし

それから少ししてから救急車と警察が来て現場検証と事故処理は事務的に進行した。

一応救急車で病院に運ばれ、診断を受けた。

その病院には当直の専門外の医師しかいなかったようで
「まぁ、緊急的な処置も必要なさそうだから今夜は帰っていいよ。」
と言われた。

病院まで付き添ってくれた警察官に言われ、親を呼ぶために自宅に電話をしたが誰も出なかった。

2度かけてみたが夜も遅かったため、伸びたテープの留守番音声が聞こえてくるばかりである。

もう既に寝ているであろう家族が起きて電話に出ることはなかった。


結局その夜は病院にタクシーを呼んでもらい1人で帰宅することになった。

車窓から流れる景色を見ながらあの事故現場で若い警察官に言われた言葉がずっと頭から離れなかった。

「君、ラッキーだったね。本当は死んでいてもおかしくない位の事故だからね。こういうバイク事故で体に障がいが残ってしまう事もよくあるんだよ。どうせ、これからも懲りずにバイク乗るんだろ?よく考えて慎重に運転しないとダメだよ。人生一回なんだから本当に良く考えて生きろよ。死んでからじゃ遅いからな。」

彼にしてみればお決まりのお説教だったのかもしれない。

しかしこの言葉が私の胸に刺さって引き抜こうにも引き抜けないのだ。

返しのついた針のように今もなお、あの時の恐怖の事故体験と共に心に残り続けている。

幸いケガも大したことはなく、学校にもバレることはなかった。

後日保険屋さんから連絡があり事故の過失割合を知らされた。

9対1で相手側の過失が大きいとのことだった。

廃車になってしまったバイクの補償も保険から支払われて新たに中古バイクを購入した。

ー 今回の事故は自分が悪い。
ー 相手の過失割合は関係ない。
ー 自分が如何に頼りない危険な乗り物に乗っているか自覚しないと次はない。

私は今回の事故で大きく反省したのだった。

だが、

ー でも、今度こそ事故らず乗ってみせる。

そんなことをまだ懲りずに思っていた。まったく馬鹿につける薬なしだ。


しかしこの事故から意識がガラリと変わりそれまで以上に慎重な運転を心掛けた事は言うまでもない。

何しろこちらは命がけの、無力で生身のハイスクールライダーなのだ。

ところで我が親ときたら本当に大したものである。
放任主義もここに極まれり、の肝の据わり方だ。

子供を信用していると言えば聞こえは良いが夜中に2度も電話が鳴ったら少しはピンと来てほしいものだ。

まぁ、いつも門限もなく深夜にこっそり帰宅していた私が心配しろと言えた立場ではないのだが。


そんな自由と責任を少し身に染みて感じた16歳の冬の出来事だった。

単なる偶然と幸運で生き永らえた命だが、あそこで人生が途切れていてもおかしくなかった。

あー生きててよかった・・・。


高校時代★普免取得した話 へ続く↓

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