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【エッセイ】北海道に上陸した後の展開

#エッセイ #北海道移住 #再び地獄へ #またサッカー #彼女の仕事は華やか #バートンスノーボード #ジェイクとショーン #ロスジェネですがなにか  

これが私の国『日本』


2000年7月。
東京から旅立ち、私たちを乗せたジムニーは北海道へ上陸した。↓

カナダに行く前の当時、日本脱出の準備期間で西日本をバイクで旅したことを思い出した。↓

あの時は鹿児島の最南端、佐多岬まで行き戻ってきたが今回は本州青森の最北端、大間崎からフェリーで函館港に上陸した。

あてもなく、予定もない旅であったがとりあえず札幌を目指した。
一人の知り合いもいなかったが札幌についた翌日にはアパートの一部屋を借りることが出来た。

仕事も収入もない旅人なのに戸籍と保証人がいれば信用に値するのか。
こんなところでも感じられる素晴らしきかな日本だ。
やはりこの国はサイコーで楽勝だ。

カナダでの経験が二人をタフにしたのか、札幌での家探しや職探しなどトントン拍子で順調に決まった。

やはり日本は住みやすいし安心安全だ。

人も優しいし言葉も通じる。
食事も安くて本当にうまい。
行政サービスも自治体制度も公共福祉も国民皆保険制度もすべて素晴らしい。

これが我が国なのだと思うと誇らしい気持ちになる。
やっぱり日本が暮らしやすい。

こんな気持ちになれたのも海外で暮らすことが出来たおかげだろう。


ヘルズアゲイン 悪夢の再来


札幌での私の仕事のことだが、こともあろうに再び地獄のあの会社に入ってしまった。ヘルズ・アゲインだ。
せっかく出所できたのに自ら悪夢の道へと足を踏み入れてしまったのだ。

(やっと地獄から抜け出せた時の当時の話 ↓)

目的は毎度おなじみ、短期でニセコライフのための資金を貯めることだ。
とにかく短期でなるべく多めに稼ぎたいときの駆け込み寺である。

そして心のどこかにもう一度、弛緩しきった自分を鍛えなおしたい願望があったのかも知れない。

自分なら即戦力としてあの地獄の現場でやれる自負もあった。

しかし、あのストライプのシャツに袖を通し、鏡に映る自分の姿を見た時は不意に我に返る思いがした。

ー 俺は本当にあの地獄の底に戻る覚悟があるのか。

まあでもなんとかなるっしょ、と深く考えないようにした。
それぐらい意識を麻痺させなければ勤まらない仕事であることは自覚していた。

ー 地獄に戻るのはこれが最後だ。もう一度だけ頑張ろう。

私は決意を固めた。
やりたいことの為にはやりたくないことで結果を出す必要がある、私の中でこの教えは不変なのだ。 

覚悟が決まれば後はやるだけだった。
経験者といえどもちろんあの新人研修から始まる。↓


研修を終えるといきなりコースを任される段取りで同乗指導が進み入社からわずか二週間で独り立ちした。

「さすが経験者だな。でも北海道は内地とは勝手が違うぞ。特に冬が本番だから夏から慣れておけよ」と、同乗指導の先輩に言われる。

「はい、戦力になれるように頑張ります」と私は答えたものの実際冬になってみると雪道の中の集配業務の困難さには舌を巻くことになるのだった。

この道をトラックで進入するのは無理

まず道幅が除雪の雪山により狭くなってしまうのだ。
対向車と行き違えない道にはトラックで進入できないため遠くに停めて自分の足で走る場面が夏に比べ倍増する。
長靴で雪に足を取られながら荷物を抱えて走るのは思っていた以上に厳しかった。


だがやがて雪が解けて道が広がるにつれてこんなに走りやすいのかと感動するのだ。雪がないと札幌の道はこんなに広いのかと改めて思わされる。
町の区画の整理や住所の表記の合理性にも感心した。札幌は新しい街づくりを合理的に進めることに成功した都市なのだと思った。

碁盤の目のように整備されている札幌市街

またここでもサッカーか


そしてまたこの職場でもあのやり取りが繰り返された。
職場サッカー部へのお誘いだ。↓


「おい、お前サッカーやってたらしいな」
「はい、それしかやってませんでした」

「よし、決まり。来週から会社のサッカー部に参加しろよ」
「あ、はい。やっぱりそうですよね。心得ております」

(青春を賭したサッカーに明け暮れた日々 ↓)


こうして私は北海道でも職場のサッカー部に入ることになった。
このサッカーにまつわる業は我が人生にずっとついて回るのだと自覚している。

余談になるが前回の北関東ブロック代表の時は『北関東レッズ』というチーム名だったが今回の北海道ブロック代表でのチーム名は『北海道ドサンコーレ』だった。

どちらも地域のプロサッカーチームの名前を意識した名前だ。
サッカーのチーム名は全世界的にも地名を冠することが多い。
それは地域から愛されるチームになって地場の企業スポンサーからの協賛を得て地域振興に貢献するためだ。

北海道とともに、世界へ


私も今でもよく、我らが北海道コンサドーレ札幌の試合を応援に行くことがある。なんと私の高校時代のサッカー仲間も数年在籍していたことがあったのでチームに愛着も湧くし不思議な縁も感じる。

私自身、北海道でサッカーをプレーして感じたことは気候と環境の良さだ。冬は雪で活動が制限されるが真夏の清涼感は雪のハンデを補って余りある。真夏でも暑くなくバテずに爽快なプレーが出来たことに感動した。

そうして私は本業とサッカーに忙殺され札幌での日々はつつがなく過ぎて行った。

彼女の仕事は華やかなスノーボード業界


ところで彼女の仕事はというと、世界的なスノーボードメーカーに勤めていた。ガテン系の私の仕事とは違い、華やかな外資のメーカー勤務だ。

と言っても札幌では所長以下四名の小規模な事業展開だ。
彼女が採用されたのは海外に渡航経験がありカナダでもスノーボード歴があったことなども関係したようだ。 

因みに英語でスノーボードを教えるインストラクター資格をカナダで取得していたことも彼女の名誉のために付け加えておく。

この会社は各スキー場での試乗会や北海道中のスノーボードショップに板の販売をしていて忙しそうだった。
私もたまにヤジ馬で手伝う真似事をして試乗の板を使わせてもらいつつ顔を出すこともあった。

驚いたことに彼女はそのメーカーの社長のバートン氏や幼き時代のショーンホワイト少年などの札幌観光アテンドをしたり一緒に滑ったりしたこともあった。

ジェイク・バートンさんとショーンホワイトさん

後にその少年は世界的なプロライダーとなった。冬季オリンピックのスノーボード種目で三度も金メダリストになったのは有名と言えばあまりにも有名な話だ。


そして札幌での生活に慣れた頃私の中で『もうそろそろニセコで暮らしたい』という思いが募っていった。

なにしろ札幌からニセコに滑りに行くに2時間もかかるのだ。

ー こんなはずじゃなかった。早くなんとかしなければ。
ー お金も大事だがやりたいことをやるために北海道に来たはずだ。

2001年の春、私の中でのマグマが動き出すのをはっきり感じた。
早く自分らしく生きられる場所に住みたい・・・。

誰かのサイズに合わせて自分を変えること(必要)はない


札幌からニセコに移住したい奮闘記 ↓


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