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J.D.サリンジャーについて/『バナナフィッシュにうってつけの日』は『サリンジャー入門にうってつけの書』
ちょうど去年の今頃、蔦屋で発見して即買いした
「しししし3 特集:J.D.サリンジャー」
サリンジャーなんてものは、昨今の若者からは敬遠される存在
(流行ってすぐくらいの頃の『アキネーター』ですら「サリンジャー」を当てられなかった)
であると思っていた。
「サリンジャーに傾倒した時期がある」
などと言うと、いろいろな意味で、
「ある種の人間」としてカテゴライズされてしまうのではないか
という自意識が働き、なんとなく避けてきた節がある。
(この自意識が、またサリンジャーぽいが……)
つまり、文学好きなど一人もいなかった青年期までの僕の交友環境において、(それはそれでとても濃密で幸せな時間)
「文学、ことにサリンジャーなんてものはこっそり読むものなのだ」
と思って僕は生きてきたのだ。
それが蔦屋に大々的に平置きされているということで、僕のテンションは上がったのだ。
外国で日本人に会う感覚。
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さておき。
放浪していた空白の数年間以来、久しぶりにサリンジャーに触れた。
サリンジャーに触れると、感情やら何やらが初読時の若き日に引き戻されて、仕事が手につかなくなる。
サリンジャーに触れると、
自分のエネルギーの源は何なのか、
そんな思考に火がつく。
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サリンジャーとの出会いは、『ライ麦』や『フラニー』ではなく『バナナ』だった。
10代で味わった、大きく二つの残酷な挫折感。
10代後半から20代前半、僕の世界は実に暗黒だった。
そんなおり、古本屋で手に取ってみたのが『ナイン・ストーリーズ』だった。
著者の名前はもちろん知っていた。
マーク・チャップマンはもちろん、BLANKEY JET CITYの『SALINGER』のサビの語感とギターリフも脳裏に淡くあった。
(改めて聴くとめちゃくちゃかっこいい)
https://youtu.be/Zu1gorO00DAhttps://youtu.be/3nW0f9FL3MU
「バナナフィッシュて、なんかふざけた語感やな」
それが正直な感想だった。
しかし声には出さず心でそう言いながら、僕はページをめくった。
(今思うと、『ライ麦畑でつかまえて』にも同じような語感触を覚えていて、僕は無意識にサリンジャーを敬遠していた)
結果、このわずか数十ページのせいで、僕は長きに渡ってサリンジャーワールドを漂う羽目になった。
言うまでもなく(ある)、若き日の僕を最初に魅了したのは、ホールデンでもズーイでもフラニーでもなく、シーモア・グラースその人だった。
『バナナ』のシーモア・グラースは、当時の僕をど真ん中から貫いた。
これが『フラニーとズーイ』や『ライ麦』だったら、僕は(少なくともこのタイミングでは)サリンジャーを読み流していたと思う。
強烈な実環境と、強烈なシーモア・グラースが、僕の中で綺麗にリンクしたのだ。
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さて内容だけれど。
読めばわかる。
が最適な説明になる。
ていうか、それしか言えない。
なんも言えねえ。
もう少し詳しく。
まず、サリンジャー(ことに『バナナ』)についての考察や解説は腐るほど出ているから、ここで僕があーだこーだ言う必要はないと思っている。
(つまり僕は逃げている)
というのと、ここで表題につながるのだが、
あくまでも個人の意見だけれど、僕は、
「作品の意味やメッセージ」なんてものは、受け取り手個人の中でそれぞれ構築するもの
で良いと思っている。
あらゆるアート(以下創作物)において、
・理解できるかできないか
・わかっているかいないか
みたいなことは僕にとってはどうでもよいことで、
「作品」に対する理解度、
なんてそもそも存在しない尺度・単位であると思っている。
(つまり僕は逃げている……)
そりゃ時には、自分が好きな作品についてお門違いな見解を持っている人(それが特に作品ディスだと⋯⋯)に出会うと、
「わかってないなぁ……」
なんて思うし、自分の作ったクリエイティブでも、説明が必要な局面では「説明」する。
(いやむしろ「仕事」ではほぼ100%「説明」の毎日か……)
あ、あと美術館の「説明」は絶対読むしなー……
難しい……
まあ一旦細かいことは置いておいて。
結局なにが言いたいのかというと、
創作物を「感じる」にあたって、わかるかわからないかは二の次
ということ。
「理解」を目的にする必要はない、ということ。
『ゲルニカ』を「わかっている」人間がどれだけいるのだろう。
『モナ・リザ』を「わかる」人がどれだけいるだろう。
『ポロック』を「わかる」奴がどんだけおるんやろう。
サリンジャーもそれでいいんちゃう?
あらゆる創作物は「印象」でしかない。
「印象」を喚起させる起爆剤のようなものでしかない。
あらゆる「創作物」の中でも、サリンジャーとか特に「難しそう」に思えるけれども、
その「短さ」や「抽象性」、作家の「知名度」などのバランスを鑑みた時、『バナナフィッシュにうってつけの日』は、「感じる文学」にはもってこいの作品だと僕は思うのだ。
(つまり僕は逃げている……!)
そして多分、サリンジャーに初めて触れた人の約8割が、
「……あんま意味わからへんなあ……。でも、なんかおもろいような気もするし、ドストエフスキーとバルザックの間に並べといたらなんとなくかっこええ感じになるし、また読むかもしらんから一応ブックオフには出さんとこか……で、感想聞かれたらおもろいで、って言うとこ……」
くらいの感想だと思うし。
(いや違うか……)
とどのつまり、
『バナナフィッシュにうってつけの日』は、「サリンジャー入門にうってつけの書」である。
と僕は思うのである。
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らっしゃい
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