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映像制作は社会との架け橋/デイヴィッド・ホックニー展/東京都現代美術館

圧倒的な独創感
ポップな色彩から時折のぞく切なさみたいな波紋(文字通り)、
一つひとつのモチーフに宿るエネルギーの連なりで完成されるフレッシュな作品たちにやられて、
踊るような心境でその後の打ち合わせに向かった去年の夏。

昨年、最も独創感に震えた展覧会。

そのくせホックニーについて振り返ることがなかった。


今日現在を生きている表現者について語るのは好きじゃない。
気が引ける。
自分と同じ時間軸を生きている人のことを語るなんて、おこがましいと思ってしまう。
つらつらと感想なんて述べていると、
『ごちゃごちゃ言わんとお前はお前のやるべきことをやらんかい』と、
僕の中の僕がハリセン付きで突っ込んでくる。
しかも結構な勢いだから、僕の後頭部は1週間ほどヒリヒリと痛む。


しかしそれでも、自分が観たものや感じたことというのはできるだけアウトプットしていきたい。
幸か不幸か、今の僕にはそんな気概にいる。
飽きないうちにやっておこうと思える気力がある。

ホックニー展にて

90歳間近にしてFresh感!&Sprout感!


語彙力ゼロ表現で恐縮なのだけれど、
ホックニー展の印象(インパクト)を言葉にすると、これに尽きる。

画家自身の苦悩や混乱、作風、挑戦的な活動、言動、何もかもが新鮮。
そして全ての作品に漏れなく溢れる新芽感。

ホックニー世界に足を踏み込むと、自分が異物化したみたいな感覚に落ちる。
ある種の浄化すら覚える。


そしてその作品たちからは、

まだまだ進化し続けるのだ、
という気概

まだまだ『新しいもの』は生まれゆくのだ、
という希望

まだまだ観たことのない世界は存在するのだ、
という探究心

何より、

この人生を楽しむのだ、
という圧倒的な覚悟と強烈な意志

が草津温泉の湯気ばりに(もっといい比喩なかったか?)たちのぼっていて、かつそれらを一つにまとめ上げる、

色彩という勇気のうなり

が胸を衝いてくるのだ。

60年以上にわたって現代美術の第一線で活躍するホックニー。
90歳間近のホックニー。
挑戦し続けるホックニー。
iPad、写真、映像⋯⋯
多岐にわたる手法で、さまざまに形を変えて表現し続けるホックニー。


感服。

僕もホックニーのように挑戦し続けることができるだろうか。
制作を続けることができるだろうか。


飽き性の僕には珍しく長続きしている時点で、少なくとも映像制作は性に合っているのだろうとは思う。
(飽き性というより、頭の中がすぐ次に向かってしまうと言えばいいのか)

『音楽がなかったら乞食になっていた』
『映画がなかったらのたれ死んでいた』
『絵がなかったらこの世にいなかったかもしれない』
のたれ死にはしないだろうけれど、どこかで聞いた古いアーティストのインタビュー記事みたいな台詞が、そんなに大層なものではないとしても、なんとな〜くわかる気もする。


違う。
というより、映像制作が僕と社会を繋ぎ止めてくれているみたいな感覚があるのだ。

映像制作がないと、僕はまた世間から離れていってしまう気がする笑

なぜか。
映像は一人では作れないからだ。

僕はいわゆる『映像作家』に比べると、多くの工程を自分の手でやることがある。
やらなくて良いことや、やらない方がいいことも、作家性を保つためにやってしまうことがある。

しかしいくら諸々の工程をこなしたとしても、一人きりで映画や広告は作れない。
そこには必ず俳優部、演出部、技術部、ヘアメイクや衣装部、制作部、車両部etc……がいて、映像を作るためには、いやがおうにも世間とつながらなくてはならないのだ。
(※特例は除く)


放っておくと一人でふらっとどこかにいってしまう。
放っておくと空想の世界にいってしまう。
子供の頃からそんな風だった。
(子供の頃の写真は、今の何倍も目がうつろだ笑)

しかし映像作りには仲間が必要だから、
僕がどれだけ浮世から離れそうになろうとも、映像制作がある限りは強制的に世俗に引き戻される。

映像制作があると、僕は社会にいられる。

そういう意味で、生成りだとふわふわと浮かび上がってしまう僕みたいな人間にとっての映像制作は、世の中との架け橋というか、社会を航行してゆくためのバラストというか、そんな役割を成している気がしてきた。


ホックニーからだいぶ話逸れまくってしまったが、
僕もホックニーみたく制作を続けよう。


そんな風に思えた2024秋。



らっしゃい





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