部屋と愛犬とわたし
犬の一生は人の何倍速もの速さで終わりを迎える。
15年前、千葉県のブリーダーさんから1匹の犬を引き取って来た時、私はそのフワフワで小さいパピーを抱きしめながら、この先 あなたと私が一緒にうまく暮らして行けるのかと正直戸惑っていた。
私には自分の日常があり、仕事があって友達がいて週末の予定がある。
そんな当たり前の日々の中で、犬というのは仕事もなく友達も週末の予定すらない。
それどころか、ご飯を自分で支度したり、排泄の始末や寒暖の調節すら出来ない生き物で、まるで人間の赤ん坊となんら変わらないと例えたくなるけれど、犬はそれが生まれた瞬間から死ぬ瞬間まで続く。
犬の人生は、人間の子供みたいに成人し自立させる事が目的ではないし
犬と暮らすという事は、自分を死ぬまで必要とする命に対して、最後まで愛を与える覚悟が必要だった。
そんな生活の中で、何より困難になってきたのは、やはり言葉が通じないというジレンマ。
当然お互いに一生言葉を交わす事は出来ない。
訓練によっては、犬は人間の幼い子供と同等の知能を持つ事もできるけれど、私は躾に一切拘った事がなかった。
そして最後まで言葉が交わせない2人の信頼関係を築いたのは、
**行動 態度 表情 感情 愛情 **
それだけだった。
生態を学んだり、愛玩動物飼養管理士の資格も持ったけど、「言葉」という便利なもので意思疎通や、愛情や哀しみを伝える事が出来ない私達の関係は、
結局だだ素直に心を通わせる事でしか共存できなかった。
15年間の愛犬との思い出を語れと言ったら日が暮れてしまいそうだし、犬との生活がどれ程自分の生活を彩り豊かにしてくれたかを話すのは、多分死んでしまった日の事を話すより難儀だと思う。
だって もう 当たり前なんだけれど、一緒に過ごした素晴らしい日々をつらつら語り尽くす事なんて、まだ今は上手にできない。
でも、いつか話せる日が来るから。だから今日はくよくよしないで今日の風に吹かれましょうなんて歌ってみる。
一緒に生活をしていた犬は、聞き分けがよく 無駄吠えもせず、旅行や散歩に連れて行っても、社交的でよく笑っている犬だったし、家にいる時は、適度な距離感を基本保ちながらも、私が泣いたり 具合が悪いとシトッと側に寄り添い体温をくれた。でもそこにやっぱり会話はなくて、ただあるのは一緒にいるという事実だけで、それが何度も私を救い癒してくれていた事が蘇る。
もしかしたら、千葉のブリーダーさんのお宅で、初めて抱きしめたあの日の私の戸惑いを、犬なりに司ってくれていたような気がして。
そして15年間、私の不安を拭い去る為に、信じてほしいという想いを
**行動 態度 表情 感情 愛情 **
で私に伝え続けてくれていたのかも知れなくて。
私はずっと、いつか愛犬の心臓が止まった時、信じたくないと泣きじゃくる事だけはしたくないと思っていたし、その最期の日をどんな感情であれ受け入れて、何よりありがとうと感謝をしようとずっと思いながら日々を一緒に暮らしてきたので、ペットロスになってしまう人を理解出来ない訳ではないけれど、
「自分が寂しくなる」から死んで欲しくない。という限りなくエゴに近いその感覚だけにはなりたくなかった。
愛犬が亡くなった日から暫くは、自分がどれ程悲しいかより、愛犬が一緒に暮らせて幸せだったかばかり考えていて、きっとこうして残された者を苦しめるものがあるとするなら、この世にいなくなってしまった事実以上に、もっとこうしていればという後悔の念がある事じゃないだろうかと思ったりした。死という別れを避ける事は絶対にできないのだと受け入れていれば、今を生きている質を変えられる。後悔が少ないというのは、それだけその瞬間を大事に生きた人だけの唯一の救いになると思うから。
去年のクリスマス
痛みの全てから開放された。
あなたが あのとき
幸せだったと思って瞳を閉じてくれいたなら
どんなに…
それでも日々は続くし
気付けば春がきて、私はちゃんと1人だ。
現実を受け止めてはいたつもりだけれど、さっき1人で歩いてて、ふとこの季節独特の気持ちのいい風が吹いた時、
ああ もういないんだな
って急にわかった。
そんな事知っているのに、
もうこの地上にはいないんだって。
ちゃんと思えて堪らなくなった。
それでも日々は続く
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