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「雲の行方」 ショートショート
ヨシヒコは緑溢れる原っぱに寝転んで空を見上げていた。
透き通る青空。山々の合間から入道雲が立ち上っている。移りゆく雲の形を見ているだけでも楽しかった。
夏になると父親に連れてこられる祖父母の家。
普段はそれなりの都会で暮らしているヨシヒコにとって、自然というものは刺激的で不思議な魅力があった。
祖父母の家に行くと、父親はいつも同級生と飲めや騒げやの宴会に出掛けてしまう。
年代の近い子も居ないヨシヒコは、いつしか一人で大自然を遊び相手に過ごすようになっていた。
そんななかでも山の中腹にある原っぱはお気に入りの場所だった。
転がって入道雲を見ていると、原っぱの先にある山に雲が佇んでいるように見えた。
なんだか、綿飴みたいだ。いや、学校で雲の正体は水や氷の粒だって習ったっけ。じゃあかき氷かな。
あそこまで行けば雲に手が届くのかな。
あの山は「髪櫛山」って婆ちゃんが言ってたっけ。危ないから近付くなって言ってたな。
熊も出ない、狼も居ない。そんな山のどこが恐いんだろう、婆ちゃんも心配性だよな…。
そんなことを思いながら、ヨシヒコはウトウトと昼寝を始めた。
…こっちへおいで…。
何処かから声が聞こえる気がする。夢でも見ているのかな…。
…こっちへ来てごらん…。
今度は頭の中に直接声が響いてくる。やっぱり夢なのかな。ならちょっと身を委ねてみてもいいかな、とヨシヒコは思った。
そっと目を開けてみる。
さっきまで昼寝をしていた原っぱは様相を変え、空は薄暗く、今にも嵐が来るかのように風が吹いている。
不気味だな、婆ちゃん家に帰るか。
そう思って山に背を向けて起き上がり、目の当たりにした光景にヨシヒコはギョっとした。
原っぱが広がっていたところが崖になっている。これでは帰れそうにない。
何処かしら進めそうなところといえば、山に向かう道くらいだ。
と、そこで初めて薄暗い中で一際異彩を放つ真っ白な雲が山に佇んでいる事に気がついた。
かき氷雲だ。
山に近付くなって婆ちゃんは言ってたけど、夢の中なら大丈夫かと思い、山に向かってみることにした。
道は結構急勾配で、すぐさま雲に手が届きそうなところまで登っていけた。
雲はもう目の前である。
恐る恐る雲の中に手を入れてみる。
なんだかあったかい。少しモフモフしているようにも感じる。本当に水とか氷なのかな…?
と、その瞬間、ヨシヒコは真っ白な光に包まれ、突如足元の感覚がなくなり宙に投げ出されてしまった。
正確にいうと、そう感じてしまった。
真っ白になっていた視界に眼がだんだん慣れてきた。見渡したそこは、雲の世界だった。
ふとお尻に手を回す。そこには地面などなく、クッションのような雲に腰掛けているみたいだった。
立ち上がってみる。フワフワしててなんだか歩きにくい。でもなんだか面白いな。
ヨシヒコがフワフワ雲を楽しみながら歩いていると、前の方に何かが見えてきた。
近付いてみると、おっきなかき氷シロップが置かれてあった。真っ赤なイチゴ味のやつだ。
せっかくの夢なんだから、雲のかき氷を食べてみようかなと、ヨシヒコはそこら中にシロップを掛けて食べてみた。
美味しい!凄く美味しい!!
とそれと同時に夕焼け時の暖かい風を感じた。懐かしい感じだ。
夢中になって赤い雲を食べていると、傍らにいつの間にか緑のシロップが置かれていた。
これはきっとメロン味かな!?と思うよりも早く、ヨシヒコはそのあたりの雲を緑に染めていた。
かぶりつく。これもまた美味しい。そして森の中にいるような爽やかな風を感じた。
今度は何味が出てくるかなと見渡すと、白いシロップが置かれていた。流石は僕の夢だ、色々と都合が良いじゃないか。
そう思うのと同時に、見えにくい白いシロップを掛けて雲を食べてみた。
美味しさと共に、雪山に居るような凍てつく風を感じた。
ちょっと寒くなってきたな。さっきの赤いシロップはないかな。と辺りを見渡すより前に念じてみると、また目の前に大きな大きなシロップが現れた。
でも赤じゃない。真っ黒だった。
もう、何味かなんて考えるのも面倒になってきた。とにかくかけて食べてみた。
それは、今までのどのシロップよりも美味しかった。ヨシヒコは夢中になってそのあたりの雲にシロップをかけ、ひたすら食べ続けた。
なんだか、足がフワフワしてきた。でもそんなの気にしていられない。どんどん食べなきゃ!
今度は手の感覚がフワフワしてきた。せっかくご馳走がいっぱいあるのに上手く食べられないじゃないか。
ヨシヒコは手を使うことも止め、ひたすら口でかぶりついて食べ続けた。
もう、全身の感覚がない。有るのは美味しい雲の味だけ。もう何も見えなくなってきた。
気がつくとヨシヒコは大きな大きな雲になっていた。雲になって髪櫛山に腰掛けているかのように佇んでいた。
ふと、何処からか声が聞こえてくる。
…僕を食べてくれてありがとう。これでやっと僕はお家に帰れるよ。君も頑張って誰かに食べて貰ってね。それじゃあね…。
待って、君は誰なの!?そう言いたかった。しかし声にはならなかった。
その声はどんどん薄れていく。というよりも何も聞こえなくなってきた。
何も感じない。見えない。聞こえない。
夢なら早く醒めてと思うことすら出来なくなった。
雲になったヨシヒコは、まだ山に腰掛けていた。誰かが来てくれるのをずっと待ちながら。
僕を食べて、ここから解放してくれる誰かを。
…こっちにおいで…と、呟きながら。
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