家庭の食事を良くした方がいい理由

 次の太字から本文です。それまでは近況報告書くので、スキップ推奨です。最近は大学院の方はまあまあです。研究は全然進んでなくて授業は順調、インターンはまだどこも受けてないです(正確には友達のいる会社のインターン選考を1つ受けて落ちました)。正直あまり乗り気ではないといった部分がデカイですね。本選考の練習をするか~って程度の認識だからでしょう。そういえば、最近は志望していた機械系技術職に曇りがかかってきました。シンプルに激務だからです。第一目的が頭脳を使うって条件なら研究とかITとかでもいいかなって揺らいでいるのが現状ですね。 

 小説の方は、ここ1週間位はボチボチ進んでいます。多分あと2,3日で最初の章が出来上がるので友達に見せようかなって思ってます。それにしてもライフワークとの両立はまだ慣れないですね。


共通認識:メガ盛りカレーはまずい

 まず、メガ盛りカレーを「うまい!」と思っている人はこれから書かれる文章に共感しにくいであろうことを言っておきます。

 僕はここ2週間くらい自炊をサボっています。理由は、ゲームや勉強、趣味をしていると20時ぐらいになっていて「さすがにこっから飯作るとなると…」ってなって渋々雑な保存食を食べている感じです。今回の記事はこの粗食生活から始まります。

 一昨日のことでした。友達が自治区(友達連中のたまり場)にレトルトカレー「メガ盛りカレー」を持ってきて、「コレをみんなで試食しよう」と持ち掛けました。

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この写真のカレーです。スーパーで86円で売っていて、安くて量が多いから買ったのだとか。確かに300gもあれば「みんなで食べよう!」ってなるかもしれない。

 ウキウキで友達がレトルトの封を切って器にカレーを盛った時、友達の顔が一瞬で曇りました。

「何このにおい、完全に液体だし」

 器には茶色の液体が溜まっていて、ケミカルさを感じさせる匂いが感じられました。確かにカレーを期待していた友達にとっては違和感を感じさせるものでしょう。

 そのカレーを一口食べた友達が一言。

「1人で食わなくてよかった」

 まあ、不味いって意味ですよね。それにつられて他の友達も試しに一口食べるのですが、「味が二次元(深みが全くない)」「カレー風の混合物」と言った評価をして二口めを食べることはありませんでした。そのカレーは最終的に僕が残りを1人で平らげました。僕も苦痛でした。

 あたかも僕も初めてこの食品を食べるように書きましたが、実は僕はコレを実家で週に1回夕食で食べていました。一袋の量が多いので姉と半分にして食べる、という計算で親はコレを買っていました。さすがに当時の僕も他のレトルトカレーぐらいは食べたことがあったので「このレトルト安っぽいな」って認識は持っていました。ただ、食べ過ぎていて「マトモじゃない」とまでは思えなかったですね。


夕食に納豆ごはんだけも雑炊だけもゴボ天だけもない

 メガ盛りカレーの翌日、僕はトッピング無しの納豆ご飯とチューブ味噌汁を夕食にしました。実はこの食事も僕の実家では週1ぐらいで出てきていたものです。当時は夕食が納豆の日は「あたりの日」と姉と話していたのが懐かしいです。

 そこで、昨日のメガ盛りカレーのこともあり友達連中に夕食納豆は普通か聞いてみたところ、「ありえない」が殆どで、1人だけ「本当に親が申し訳なく出したことがある」と答えました。そう、夕食に納豆ご飯だけなのもあり得ないのです。これは本当に意外でした(ちなみに普通は大体トッピングを付けるっていうのも意外でした)。これですら母子家庭のような、大学で貧乏目な人達の食生活であるため、世間標準はどんだけいい食事してんだって思いましたね。

 ただ、今回それを聞いたのは都市部に住む友達だけだったので、もしかしたら食事に田舎ー都会の地域差があるのではないかと考え、僕よりもド田舎でそこそこ貧困な友達に聞いてみました。結果は僕の負けでした。貧相な食事をするのに地域性はないってことですね。

 ちなみにサブタイトルに書いた雑炊は週1で、ゴボ天は月1くらいでした。あるゴボ天の日に兄が「食わない方がマシ」と言って食卓に来なかったのはよく覚えています。


貧乏飯は正直かなり影響が出る

 家庭の食事バトルの中で僕は母子家庭出の友達から「飯はさすがにいいもの食わせてもらってたな~」と言われてから、大学生みたいな貧乏飯を日常的に出す家庭はかなりヤバイんだなと思いました。味覚の教育的な側面や栄養的な側面(実家の飯のせいか、父親は179なのに僕も兄貴も170㎝ないです)といった直接的なものはすぐに想像できます。

 まず、体が悪くなります。身長体重以外もです。具体的には、僕の場合体臭に出ました。中学生の時に「臭い」と言われて虐められていました。実家のシャンプーや石鹸が全てトップバリュの色水だったのも問題の一部でしょう。当時酷かったフケも不潔感を際立たせて虐めの原因になったとも考えられます。実家を出て以降は自分の体臭を気にすることも言われることもなく、フケとも無縁でした。ちゃんとしたものを食べるって体のチューニングをする上で大切なんですね。

 次に、余裕がなくなります。例えば、グルメ番組とかは見れなくなります。遠いどこかの国の食事みたいなもんですし、見るだけみじめになるだけだったので僕も姉も見なくなりました。家庭科の教科書とかもですね。家庭の食事例とか見てても「ああ、創作物ね(笑)」としか思わなかったですね。まあ流石にあんなパーフェクトな例がガッチリ当てはまる人の方が少ないとは思いますが…。 他にもクラスの友達と価値観が合いにくいとか弁当が自分だけないから自作のダサいやつだったりとか、食のもたらす価値観って思いの外デカイので、結構子供のメンタルとか思想に影響を与えるんじゃないかなって思います。僕の場合は割と周りに「可哀そう」って思われるのがかなりキツかったですね。子供の飯代ケチる親なんて大体子供をペットだとしか思っていないので小遣いが存在しないのも地獄ポイントです。

 最後に、家庭が嫌いになります。当たり前ですよね。給食が一番美味しいのだから、飯うまい学校⇒飯マズい家というループで簡単に家嫌いが定着します。食事がオワってる家庭環境なら大抵他も滅茶苦茶だと思われるので、なおさら家庭に対する嫌悪感を持つのではないでしょうか。兄は高校時代、家の飯を食わずに友達の家で飯を食べさせてもらっていた時期がありました。


食事をケチる家庭の何がヤバイか

 江戸時代の農民以下、奈良時代の農民の食事しか用意しないこと自体のヤバさは十分わかってもらえたと思います。ですが、重大なのはそういった悪癖が治らない状態なんですよね。

 まず、食事をケチり続ける親って家庭を客観視できていないんですよ。食事自体はテレビでも本でもネットでも職場の人との会話でも何でもいいから相対化すればすぐに「コレってヤバいんだな」とわかるはずだからです。

 次に、仮に客観視した上で「俺は嫌じゃないから」といって子供に押し付けるのは、子供への影響を考えるための想像力が欠如している場合が考えられます。こんなみじめな食事を家でさせられていたら学校でどういう扱いを受けるんだろうか?なんて考えないんでしょうね。まあ、親世代がみんな奈良時代の農民によるコミュニティにしか属していなかったのであれば納得もいきますが。

 最後に、粗食であることとそれが家庭にもたらす影響を知っていた上でそれを治さないのは最悪なパターンです。要は子供を対等な人間として扱っていないということなので、子供を拾った犬扱いしているようなものです。まあ飯食わせとけばええやろ…って感覚ですね。ちなみに、ウチの場合は何度も子供から嫌だと言われていたのに悪癖を治そうとしなかったため、想像力が欠如しているかコレに当たります。ウチは父親が特に酷かったんですけど、タチの悪いことに義母はそれを知らんふりして自分は外で食事を済ませるみたいな日々が続いていました。父親も義母も育ちは悪くないはずなのにこうなったのは少し悲しいですね。


最後に 客観と主観のぶつかり合い

 今回の記事は主に僕の実家のクソみてえな食事を叩く悪文になりましたが、コレを通じてわかった一般的なことがあります。

 それは、所属するコミュニティにおいてそれを客観視すること(とその能力)と、コミュニティの構成員がどうしたいか、という主観をぶつけ合って(話し合って)最大限活かそうとするのがコミュニティ運営にとって重要であるということです。客観によって、集団自体の損得勘定を計算することができます。正しさ(っぽさ)を集団のパラメータに取り込むのなら、集団を客観視しなければ始まりません(大体は正しさありきなんですけど)。そして、客観視以外で大事なのは、コミュニティ内の人間が互いにどうしたいかという主観をバランスよく調整することでコミュニティをよりよくできるよって話です。

 ちなみにパパと化した僕の兄とこないだ会った時に「客観視はいつでもできるが、互いにどうしたいかを調整するのは話し合わなくてはできない」と言っていました。 我が家の呪いを断ち切ってパパになった兄はカッコよかったです。

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