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「2.24 兵庫県政の正常化を求める県民集会」に寄す=太宰治「『花一輪』のうた」(HUMAN LOST)とともに=

おめでとうございます。今日がスタートですね。

あいにく九州住まいで今日も午前中仕事が入っていましたので、神戸へはせ参じることは叶いませんでした。でもオンラインで参加できて目からは滝のように汗が止まりませんでした。

 今日は地方自治体というもの、議会制民主主義というものの、本当のはじまりのお手本を兵庫が示してくれているようにも思います。僕の生まれた東京杉並区は今、区議会がひでぇありさまになっています。これは一日でそうなったわけではない。僕の半生ほとんどすべてが議会制民主主義崩壊に向けた骨抜きとそれらの補強のような悪政化・暴力化以外ではなかったからです。原水爆禁止発祥の地なんて言葉に胡坐をかいていた人たちは恥ずべきだとさえ思います。でも、それを何とかしなくちゃという区長とそれを支える区民のみなさんが奮闘しておられるのを見て、まだまだ捨てたものではないなと思っている矢先、兵庫県でもきちんとハラスメント体質へNO、手続き論の無視にはNOという風に無名の人たちからの動きが始まりました。
発起人の手柄ではない。発起人の言葉によっしゃあ!と機運が高まった人たちが結集した、それ以上でも以外でもなかった。そう僕は信じます。
みんなの思いを代弁できた、それが「県民集会と言うにふさわしい県民集会のやりなおし」という形で大勢の人たちが力を集めてきた。
僕は民主主義というものはこういうものではないのか、と真剣に思っている。まして行政をや、です。

神戸文化ホールから発せられた熱い声。まさに文学だった。文化・文学の精神に横溢していました。

人様の善意や事業に乗っかって寄り添ったポーズをとる欺瞞や詐欺を許したくはない。だって、本来民主主義社会は無名の社会だ、ということも言えると思うのです。
偉そうに自分の手柄だ、自分が関与した、自分が世話したという人はまだまだ未熟な社会だしそれでいいんだとも思う。でも、そろそろ「ちょっとのスティグマぐらいいいじゃないの、良い研究してるんだから」というような姿勢の学者や政策実務者は居なくなってほしい。当事者として心底思うのだ。
市井の人たちにとって大した事ではない言葉だったとしても、それで人が死に直面しなければならなくなる。尊厳を踏みにじられるというのはそういうことだ。まさに今回兵庫で起きた「死」は憤死以外ではなかったではないかとさえ思われる。でも、それ以上は言うまい。僕自身がヘイトやハラスメントにNOを文章であらわすことはできていても、死ぬことは防げなかったのだから。他人様を変えるほどの力は僕にはない。まったくの無力です。
でも、東京に住んでいようと九州に住んでいようと、関西に居る大勢の友人たちと共によりよい私たちの社会を目指して、自分の持ち場を徹底的に大切にすることだけはできる。そう誓いたい。

下記に今日の集会にぴったりな作品を引用してお祝いしたい。

「花一輪」のうた。ほんとにムネアツです。

こういう作品を書く太宰治が僕は大好きです。

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「花一輪。」

サインを消せ

みんなみんなの合作だ

おまえのもの

私のもの

みんなが

心配して心配して

   やっと咲かせた花一輪

ひとりじめは

   ひどい

どれどれ

わしに貸してごらん

やっぱり

じいさん

ひとりじめの机の上

いいんだよ

さきを歩く人は

白いひげの

   羊飼いのじいさんに

きまっているのだ

みんなのもの

サインを消そう

みなさん

みなさん

おつかれさん

   犬馬の労

骨を折って

   やっと咲かせた花一輪

やや

お礼わすれた

声をそろえて

ありがとう、よ、ありがとう!

   (聞えたかな?)

太宰治「HUMAN LOST」より

菅野完

(ここから増補改訂)
太宰治は作家のサインまで消そうよ、という勢いで民衆を励ましてたんです。
一方で、当時「小説の神様」なんて誉めそやされてた奴(志賀直哉)は何をしました?
日本の母国語をフランス語にしちまえとか
だからあらゆる「熱狂」「埋没」を「トカトントン」の音が聞こえますか?と皮肉った断末魔の作品を最後に、あとはフツカヨイの駄文ばかりだすように変わって行ったのです。芥川も太宰も「志賀直哉」のような傍観者の欺瞞に殺されたようなものなのです。

無名の闘い、透明化され分断されてる軍国主義の日本でさえ、民衆同志が手を取り合う視点、読者を信頼した作品を残し続けた稀有な作家なのだと、文学史を提起しつづけるのが僕の文学部生としての闘いでもあったのです。
あの学生時代からずーっと続いていた太宰治の真骨頂というべき文学の系譜・・・鴎外・・芥川・・井伏・・太宰という異端者の系譜を文学史に位置づけること・・
とりもなおざずそれは、無名、無私、無力、無償といったアノニミティにつながる「サインを消そう」という闘い方・・・民主主義の条件とは何ですか?という闘い方であるようにも思うのです。
そして、社会の手続き論を基軸にすすめる政治・行政の世界、人間精神のありようの系譜として受け継ぎながら共感を通して持続し続ける文化・文学の世界、文化文学を支える歴史という下部構造の上に、経済活動の基本指針を指し示す政策・行政・政治というものが上部構造として成立できるものである。政治色がどうのではなく、社会の構造として民衆の理念が形になっていくダイナミズムこそが社会構造そのものである。と言うこと以外ではありますまい。

太宰の「トカトントン」だって、ファナティックな熱狂へ対する警鐘というシンプルな切り口を示したにすぎず、すべてを言い表したわけでもない。
これは坂口安吾の堕落論も同じです。だけど安吾は太宰はフツカヨイの文学ばかりで太宰文学論を語るなかれと釘を刺してくれている。太宰のシラフの文学を読むがよいということを。
本当の民主主義の方向性って無名性と無名を信頼しての連帯、という俺が俺がとは無縁の、そして面倒くさい手続きの連続だという事を強く思わされる。これまでもYouTube配信で菅野さんが指摘し続け共感してきた。無名で無償で無力だからこそ、真剣に大切にしなければならない尊いものなのだという事を、今回の登壇者のお一人お一人がおっしゃっている。それさえが分かることができない人間がやたらと声を大にしたり茶化したり、デマをフレームアップしたりする。
こんな熱いメッセージを聞いて、ただ「いいお話を聞きました」で終われますか?僕たちの現場をまず真っ当にやり通す事、同時にそれらを信頼して手を取り合える日を待つ・・それだけでもどれだけ尊いか。
できることを、できる範囲で、できる限りめいっぱい手を伸ばしてみよう、
そういうことを強く思いました。
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スタートの最後に、今日のYouTubeでの菅野完さんの言葉がさらに印象的だったので書き残しておきたい。(速記ではなく大意にしておきます)

今日のイベントがもし成功だったとするならば、
素晴らしいメッセージを送ってくださった人たちもあったにせよ
スタンディングして署名を待ち続けてくれた人、
見張って町なかで立ってくれていたひと
インカムで連絡をとりながら外を歩いてくれた人
事務所とホールを何度も重たい荷物を運んでくれた人

すべてのおかげだ。
一番の自慢は「(会としての)打ち上げパーティ」すらしていないこと。

菅野さんの仲間たちらしい、市民社会にフェローシップらしい運営と歩みが始まった。まさに民衆相互の「フェローシップ」の誕生を祝いたいのである。
身内を言うようで恐縮だけども、と断りを置いたうえで菅野さんの言葉はあくまでも謙虚でその先を見据えた言葉だ。
スタッフのみんながかっこよかった。中の講演やホールの中を一度も見ることなく役目に専念してくれた人たち、まだまだ旅は続きます。
でも、今日だけ「みんなありがとうございました」。

神戸新聞記事

公式チャンネル動画


(講演文字起こし進行中ですが、実子母体と権利関係を確認して参ります。)



ドンマッツの反カルト思考チャンネルより


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