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早大史上初という、、、
5年間も通った校舎が当時と同じままの建築物なのに、こんなとこだっけ?と違和感しか沸かなったのが不思議だったが、あの独特な書体の立て看が無くなったからだと今頃気づいた。
戸山キャンパスに対する違和感も早稲田アリーナという建築物ができたということにも今頃気づく。敷地にあった記念会堂は早稲田アリーナという施設に生まれかわっていたのだね。施設の接道部分を緑地化しなければならないという新宿区の「みどりの条例」という時代の流れに洗われて「洗練」という言葉しか見当たらない建物になっていた。
入学式が開催される記念会堂、その前の広場は副幹事長時代に早稲田史上初の学生プロレス大会を開催したという思い出の地でもあった。当時の学園祭は革命マルクス主義の人たちが主催するイベントであった。主催側とのプロレス大会を開催したいという「お前らなんのこっちゃ」的な交渉や、まずは大学公認サークルとして登録しろなどの運営事務をこなし、他大学と同じようにちゃんとしたリングを設営して興行自体を成功させたことは、ある意味、自分自身ホコリでもある。そんな血と汗と涙の場所が、整然とした街路樹に囲まれたコンクちっくな建物に変貌していて、驚いた。
当時は立て看に囲まれた学生生活がスタンダードだったので、今歩いてみて人や建物が新しくなったというよりも立て看のないキャンパス、チラシの散乱していないラウンジに寂しさを感じてしまったのだ。あれはあれで思い出を彩っているのかもしれない。
公認サークルになるためには指導教員が必要ということで“プロレスちょっと好き”という先生を探し出してほぼ無理やり公認になっていただいたりした。確か、その先生のツテで卒業証書に学校印を押すというバイトをさせていただいた。学生プロレスのサークルだから力はあるんだろうという純粋極まりない採用方針だったかと思われる。証書に名前を書く書道のできる先生が3人、学校印をまっすぐ鮮明に押す学生が4人だったかな。4年だったが留年決定していたので、自分の名前の卒業証書が回ってきたときは、廃棄となるのにバイト代をもらうのは忍びないと思いつつも感慨を持ってみていると、「記念にもらえないのだろうか」とか「先生、この人のは書かなくていいんです」とかいろんなことを言われた。そんな作業をした図書館は、当時も立て看はなかったような気がする。今みても唯一懐かしい気がした。