プロレスで出会った友達のために
1999・1・31
22年、ふた昔も前のことになってしまったのか
自分もいよいよ時間を大事にしたほうがいいと実感しているコロナな昨今
きちんと思い出をまとめておこうと思いつつ、ここまで来てしまった
色々な記者の方たちが語っているのを見ていてあの日のことを思い出すことしきり
東スポWEBで平塚雅人さんが命日に向けて連載してたり、市瀬英俊さんは本を出すらしい
Facebook友達のためにも少し残しておきたいと思った
1999年の2月1日は月曜日だった
会社にはまだ営業部長の“ザ・実直”大峡正男さんしか来ていなくて2番目の出社だった
着席してすぐに大峡さんから内線で電話が回って来た
「東スポの桜井さんからの電話なんだけど馬場さんは元気かって言うんだけど」
外線に出てみると、いつもの桜井康雄さんの声だったけど、すごく言いにくそうに言葉を選んでいる
「すごく変なことを聞くんだけどさ、馬場さんは元気? 変な話が出回ってるんだよ」
その後、ターザン山本さんからも電話が鳴った。同じ内容。
3本目の電話は元子さんからだった
毎日のお伺いfaxへの朝一の業務返事の電話
あの日はエキサイト・シリーズのパンフレットの表紙のデザインの校正を確認していた
いつもと違う抑えた声
「うん、あのデザインでいいんじゃない、、、
それとね、、、
三橋くん、馬場さんが亡くなりました、、、」
振り絞るような泣き声にかわった
平塚さんの記事を読んでいて思い出すと、確かにこの日、元子さんの気丈な姿ばかりが思い出される
元子さんとは毎日のように夜中3時頃まで電話で話すのが日課だった、仕事以外の話が結局多くなり、泣くことがしょっちゅうだった
その後に続く言葉、、、
阿吽の呼吸で元子さんが馬場さんの死について、何を隠したいのか理解した
密葬が終わるまでは隠してあげたい
世間の人は元子さんのわがままで馬場さんの死というリアルを隠したかったのだろうと勝手に解釈しているが、それは違うと思う
「何を誰に聞かれても知らないことにして」
これまでも相当に困難なミッションが多かったが、こうして馬場さんからの最後で最強のミッションが下った
誰に何を聞かれても「何を言ってるんですか、おかしなことをききますね」と答え続けた
午後3時頃かな、
「もう隠し切れないね、、、」という電話が試合終了のゴングに聞こえた
その瞬間から全日本プロレスを離れるまでは、それまでと全て何かが違ったなと思う
2024年加筆
何が違ったのかというと、すべてだった
一番違ったのは、やはり元子さん自身だった
護るべきものがなくなったわけはないけれども、護るべきものが形を変えた
そんな時代になった