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【実録】UA811の記憶(4) 完

これまで3回有料で配信させていただきましたが、思っていた以上の方に読んでいただいており驚いております。本当にありがとうございます。

最初は2回ぐらいで終わる予定だったのですが、色々思い出しながらつらつらと書いているうちに、どんどん記憶がよみがえり、長くなってしまいました。そして3回でも完結せず遂に4回目に突入してしまいました。

私の駄文を4回も有料で読んでいただくのはあまりに心苦しく、今回は無料で配信させていただくこととさせていただきました。

これまでの配信☟


今度は大丈夫

幸いにも、預けていた私のスーツケースは、海に落ちることなく、荷物倉庫に残っていることが確認されました。機内に残してきた手荷物も無事回収され、パスポート・財布も戻って来ました。

ホノルル空港のゲートに向かう通路は、報道陣で埋め尽くされていました。その頃には日本の報道陣もたくさん詰め掛けていました。日本に帰ったあと、この場面で私のことを見かけたと知人からよく言われました。

彼女たち二人も行く決断をしたので、カメラと照明の砲列によって照らし出されたこの通路を三人で歩きました。

今度こそオーストラリアに上陸してやるという意気込みを持って。

飛行機に乗り込む直前に、チーフCAのような女性が立っていて、乗客一人一人に最高の笑顔で挨拶をしていました。

私たち三人が乗り込む前に、彼女は機体の壁を手でどんどんと強く叩き、最高の笑顔で言いました。

「この飛行機はしっかりしてる。今度は大丈夫。安心して行ってらっしゃい。」

この態度に怒る日本人はいると思います。日本の航空会社であれば、間違いなく深々とお辞儀をして「大変申し訳ございませんでした」と顔もあげずに神妙にお詫びする場面だと思います。

でも、私はものすごく気持ちよかったのです。

彼女の悲しみを吹き飛ばして再挑戦しようとするその心意気が。

私たちは事故の時と同じ順番に並んで座りました。さすがに機内で座席に着くと事故のシーンが蘇って来ました。あれからまだ24時間も経っていないのです。

座席についた機内の乗客全員からも同じような不安の空気を感じました。

しかし、それ以上に乗組員含めた全員が「今度こそみんなでオーストリアに行くんだ」という一体感の方が断然大きかったのです。

当たり前です。全員、あの事故のショックの直後に、左(自国に帰る)ではなく、右(それでもオーストラリに行く)に並んだメンバーなのですから。

途中、CAが配膳のカートをどこかにぶつけて「ガシャン!」と大きな音がして全員座席から飛びあがってびっくりしたことを除いて、無事最終目的地のシドニーに到着しました。

前回、ホノルルに帰還着陸した時は、歓声さえ上がらず、みんな静かに泣いていましたが、今回は着陸直前からカウントダウンが始まり、着陸した瞬間には大歓声が起こり、みんなで抱き合いました。


大阪、報道陣とオカン

両親は小さな商売を営んでいました。私が第一報の電話を入れた翌日、母親がいつも通り自分の店に向かって歩いていると、店のあたりに黒山の人だかりが見えました。さらに近づくと間違いなく自分の店を人が取り囲んでいるのがわかりました。

母親は心配になって駆け出し、人だかりに割り込み、

「うちの店でなんかありましたか?」と尋ねました。

「お母さん、XXさん(私の名前)から連絡ありましたか?」とカメラとマイクが一斉に母親の方に向きを変えました。

母親は深夜にかかって来た電話と、電話をとった寝ぼけた兄貴から聞いた話を思い出しました。

「はい、オーストラリアに行く予定が1日延びたって、電話ありましたけど…」

「あの子、なんかやらかしたんですか?」

母は報道陣から何が起こったのか詳細を教えてもらい、初めて事故のことを知ったのでした。

腰を抜かす暇もなく、報道陣のカメラとマイクに囲まれ、母はテレビ・デビューを果たしました。

その日の新聞の夕刊には、私のコメント(ホノルル空港で受けた取材内容)が見出しを飾り、母親の話は、

XXさんは母親に心配をかけまいと事故に遭ったとは告げず…

と、すごい美談になっていました(笑)


天気がいい、それだけでいい

シドニーに着いたのは、天気のいい日曜日。

三人でぶらぶら街を歩きました。

教会では結婚式があり、教会の前で白いウエディングドレスを着た新婦を囲んで、新郎、そして両親・友人が楽しそうに話をしていました。

私は、大地を踏みしている実感をしっかりと感じながら、ウエディングドレスの白の白さ、その美しさを感じていました。

ウエディングドレスってこんな白かったっけ?

天気がいい、それだけでいい。他は何もいらない。

彼女たちはツアーの自由時間に、一緒に行動してくれて、マンリー・ビーチやボンダイ・ビーチに一緒に行きました。

ビーチで何もすることなく、海を見ながら、ただ黙っていたり、話をしたりしていました。

私はこれからの自分のこと、具体的に言えば4月からの就職のことを考えていました。

前述した通り、超売り手市場状況下で「もっとも大きな会社・一番いい給料の会社」の基準で選んだ会社に4月から就職することになっていたのです。しかし、ずっと心の片隅に「本当にそれでいいのか」というかすかな思いがあり、この卒業旅行はそのかすかな思いを振り払う為の旅行でもあったのです。

海を見ながら長い時間をかけて色々考えていましたが、本当は考え始めたその瞬間から、「内定を辞退して就職をやめよう」という結論が出ていたように思います。

運命の女神が今回の事故で私に何か言おうとしていたのだとしたら、それは「どう生きるか真剣に考えてみろ」ということだと思ったのです。

その夜、ホテルの電話で家に電話をしました。

母親が出ました。事故にあったことを自分の口からもう一度説明しました。母親は「よかったね」と一言。

「内定を辞退して4月には就職しないことにした。その後のことはちょっと考える。」と言うと、

「そうか。帰って来てゆっくりしたらええ。」とだけ。

この4月に私の長男が就職したのですが、今あの頃の親と同じ年代になって思うのは、なんて堂々とした親の姿勢だったのだろうということです。子供が飛行機事故に遭い、報道陣に取り囲まれ、なんとか無事だった息子が、せっかく決まった大会社の就職を取りやめると言ったことに、ビクともしてませんでした。

Captain David Cronin

現地の新聞で事故の詳細を確認しました。

金属疲労で荷物室のドアロックが外れてしまい、しっかり固定されていた為、ドアだけが吹き飛ばずに、固定されていた壁ごと引き剥がながら吹き飛んだことが原因だったようです。亡くなった九人の方々はシートごと吹き飛ばされたと。ビジネスクラスでは飛ばされそうになっている人をCA が引っ張り戻したりと正に修羅場があったようです。(どうりでCAがエコノミーに姿を見せなかったわけです)

機長は、David Croninさんというベテラン機長で、なんと引退最終フライトの一つ前のフライトだったそうです。4機のエンジンの内、2機が吸い込みで停止していたことも新聞で知りました。機長は事故直後、ほとんどの燃料を垂れ流し、帰りに必要な分だけを残すことを即座に判断したそうです。これで機体を軽くしたことが、エンジン2機だけで片側に大穴を開けたままホノルルに戻れた最大の原因だったようです。

Croninさんの事故の時の回想コメントです。

I just prayed and got on with it.

Croninさんは2010年10月4日、81歳で亡くなりました。

 その後三人はそれぞれの現実に戻りました。

私は就職が決まっていた会社に電話をし、就職の取消しをお願いをしました。会社の方も事故のことをすでにご存知で承諾していただけました。

毎晩見ていた事故の夢も、だんだん見なくなるようになりました。

そして4月から家庭教師をしながら、仕事探しを始めました。一括採用のタイミングを外していたので、学歴はほとんどチャラになったような状況になり、素っ裸になったような心地良さを感じていました。

そして9月からホテルマンとしてのキャリアをスタートしました。

数回の転職を経て、現在私は(今はコロナで大人しくしていますが)世界中を飛び回る仕事をしています。

あの時、左(オーストラリアに行かずに帰る)に並んでいたら、私の人生は全く違ったものになっていたと思います。

飛行機に乗る・乗れないではなく、姿勢が前に向いていないと思います。

あの事故のショックの直後に前を向いた自分だけは褒めてあげたいと思います。

事故の最中には、事故の様子を必死に写真に撮っている人、自分だけ生き残ろうと人を押しのけて脱出口に向かう人、気がおかしくなってフラフラ通路を歩いている人など、色々な人を見ました。

あの極限状態で理性が勝って冷静だった自分に対して、動物としては劣っているとも正直思います。もっと取り乱すのが自然だったとも思うのです。

ま、そんなことも含めて、今は運命の女神の采配を全て受け入れています。

女神はあんな手の混んだ采配を仕組んで、どうしても私に言いたかったのです、

「もう一度チャンスをあげるから、今度はちゃんと生きてみろ」と。

最後に、

緊急着陸姿勢をとりながら、落ちていく飛行機の中で、私は機長のことを考えていました。飛行機がこんな悲惨な状態でありながら、ホノルルまで戻って来た機長のことを。

そして、奥歯を噛みしめながらも、心はシーンと落ち着いていました。

なぜか、機長と心がつながっていて、無事ランディングできる自信があったのです。

ありがとう、Cronin機長。

今の私の人生観・仕事観はあの時にあなたが教えてくれたものだと思うのです。

(おわり)

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。





















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