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チェーホフの銃は撃たれない

「チェーホフの銃」という言葉がある。

この言葉は演劇用語であり、「前半部にさりげなく示した小道具やセリフに、後半部で重要な意味を与える」ことを指す。
要するに伏線回収のためのキーアイテム・キーワードと言う意味である。

チェーホフという劇作家が銃に対してこの原理を使ったことから名付けられた。


伏線が巧妙な作品は何かハイクオリティなものな気がするが、伏線とはただの因果関係に過ぎない。

「カメラを止めるな!」は確かにメチャクチャ面白いし最後は感動する。
その感動は巧みな伏線回収からくるものだろうが、よく考えたら「がんばったから生放送に間に合った」という出来事を順序を変えて提示しただけである。

恐らく、あの映画監督や俳優たちに「俺は今、伏線を張っているぞ!」という意識はない。
というかそんなことに気づかれたら作品が成立しない。

がんばって映像を作っている様子を完全な第三者目線で覗いているからこそ、「あのシーンがこう繋がるのか!」という感情になれるのである。


「チェーホフの銃」という言葉には、実はもう一つ解釈がある。

それは、「作品に出したからには、全ての要素に何らかの意味がなければならない」というものだ。

舞台の序盤で銃を出したのなら、物語が終わるまでにそれは発砲されるべきなのである。

ドラマに出てくるものや出来事は必ず未来に繋がっているのだ。



非現実と現実の違いは、「チェーホフの銃」の原理が通用するかどうかだと思う。

「チェーホフの銃」とは、演劇用語だ。

演劇とは、もちろんフィクションである。

伏線回収はフィクションをより面白くするためのテクニックに過ぎず、「カメラを止めるな!」も頭の中で考えたウソのお話を具現化したものである。

現実は、誰も使わない銃がなんの脈絡もなく出てくる。

がんばったからといって生放送に間に合う保障はない。

100蒔いた種が1咲いたら十分なのが現実で、ドラマや映画で描かれるのはその「1」の出来事ばかりである。

そりゃあドラマに出てくる出来事は全部意味のあるものになるだろう。



そんな世界を信じて「この世に無駄なことなんか何一つないんだ!」とか言っている人は、フィクションと現実の区別がついていない人だと思う。

そんな人の話を聞いている時間こそが無駄である。

全てが都合よく構築された架空の世界と現実世界を同列に語れるのならば、男女が突然入れ替わることだって、何度も同じ時間をやり直せることだって、顔がアンパンのヒーローがいることだって、寒いダジャレで火が凍ることだって全て証明できてしまう。

現実は、どれだけ「因」を用意してもどれがどのくらい「果」に繋がるかは分からない。

だからこそオモシロイよね!
とは、僕は全く思わない。

こんな無駄の多いものを映画化したら、レビューで☆1ばっかつけられて「失望しました」とか「大駄作です」とか「冒頭2分で見るのやめました」とか書かれるに違いない。
いや冒頭2分で見るのやめたやつがレビュー書くなよ。

とにかく現実は、回収されない伏線に満ち溢れた世界なのである。



そんな面白くない世の中だからこそ、現実世界ではどこに何が引っかかるか分からないままレーザートラップが如く伏線を張り巡らすしかない。

もしかしたら「いやこれ何の時間?」みたいなことも、耐え忍んでいたらチェーホフの銃として後々効いてくるのかもしれない。

「この世に無駄なことなんて何一つないんだ!」というのは大嘘だが、「無駄なことかどうかはやってみないと分からない」とはいえる。

結局何事も経験であることには変わりない。



こんなトライアンドエラーの繰り返しは、映画みたいにうまくいくことはほとんどないだろう。
傍から見ても、映画みたいに面白くなることはほとんど無いだろう。

自分の毎日なんてレビュー☆1のクソ映画に過ぎない。

しかし、そんなクソ映画にずっと向き合っていられるのは自分だけである。

僕は現実世界に生きているからこそ、自分の振る舞いを観客の目線で俯瞰することができる。

そして、映画の中の人には絶対に言えないセリフを叫ぶことができる。




「俺は今、伏線を張っているぞ!」




ということで、人生の序盤である今は、使われるのかもわからない銃をとりあえず並べているところである。






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ギョメムラ
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