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曲をカバーする上で大切にしたいこと

昨今はStayhomeの影響もあり、動画サイト上で色んなミュージシャンの方々が色んな曲の「カバー」を発信するようになってきています。流行りのポップスだったり、ジャズのスタンダードナンバーだったり... そしてクラシック曲の演奏もまた、既に作られた曲の演奏なので本質的には「カバー」と同じです(ということで、ここでは既存曲を演奏する行為全てをカバーと呼ぶことにします)。既に存在する曲を、改めて自分が発信する意味というのは何なのでしょうか? よくクラシックだから厳格に弾かなきゃとか、ポップスだから自由に弾いていいとか言われますが、そんなに単純な問題でしょうか?

まず大前提として、音楽に絶対的な良し悪しはなく、ほとんど「聴き手の受容」によって決まると思っています。だから音楽は徐々に変わって(拡大して?)いるし、その時代には評価されなかったがのちに評価されるようになったという例は音楽でも美術でもよくあることです。

「カバー」を発信する意味は何か。僕は素晴らしい楽曲の魅力を、より多くの人に伝えるということだと思います。素晴らしい楽曲に触れて、自分がどう感じたか、その解釈も含め、再び聴き手に提示する。その行為こそが、カバーをする意味です。もっと言えば、その曲を弾くという選択をした時点で、演奏者の意志が存在します。ワインのソムリエやクラブのDJのような役割を担っているようなものでしょう。

もし原曲の良さを無視してアレンジを加えたら、聴き手はどう思うでしょうか。原曲を愛する人にとっては「これじゃない感」を抱いてしまうことでしょう。綺麗なバラードが超絶技巧アレンジされる違和感。大好きなアニメが全然イメージの違う俳優で実写化される違和感。日本人が海外のカラフルな寿司を見た時の違和感。皆オリジナルを愛しているからこそ、違和感を感じるのです。カバーを作る上で、作品の本来の良さを失わないためにはこの感覚を失わないことが圧倒的に重要です。

アレンジ力や技術力は、あくまで目的ではなく手段なのです。僕も昔はあまり気付いていませんでしたが、これは中級者以上の人にとってとても大切な事実です。アレンジは調味料みたいなもので、ストックはあればあるほど美味しい料理が作りやすくなるとしても、入れれば入れるほど料理が美味しくなるわけではないのです。まあ僕は料理できないですけど

ただし聴き手が原曲をよく知っていて、かつ原曲を改変されるということに寛容である場合に限り、「カバー」をすることのもう一つの意味合いがあり得ます。原曲を題材としてオリジナリティを加えてその面白さを魅せるという意味合いです。ジャズはこれが強い場合が多いでしょうか。演奏者の技術・個性に依る場合もあれば、アイディア勝負の場合もあります。「寛容」というのを何を以て判断するかは難しい問題ですが、文化背景だったり時代だったり作曲家の考え方だったり、色々な要素を理解する必要があると思います。そもそも原作者がNOと言えばそれはNOですが、既に亡くなっている場合もあるので一概には言えません。バッハのアレンジはよくあるけれどベートーヴェンのアレンジがそんなに無いのも、何となく分かる気がする。

星野源さんの「うちで踊ろう」のムーブメントがどのように変遷していったかがこの事実をよく示しています。最初は、オーソドックスで原曲の持ち味を引き立てるようなアレンジが多く評価されました。しかし1週間もするとありとあらゆるアレンジが飽和し、伸びる投稿は「いかに面白く、個性を出すか」といった方向に徐々にシフトしていきました。これは聴き手が「うちで踊ろう」を認知しているというコンセンサスが取れてきたからです。最近はもはや音楽ですら無くなっていますが。

なにはともあれ、最初にも言ったように良し悪しなんて絶対的に決められるものではありません。人々がどう感じるか、ということにつきます。また全ての人の意見が一致することはあり得ないので、全ては程度の問題ということになります。しかし演奏者(編曲者)として、原曲をリスペクトし、原曲の魅力を最大限に引き出すという「姿勢」は常に忘れてはならないと思います。これはあくまで姿勢の話です。

じゃあその姿勢の中でいかに個性を出すか、質を高めるかというのはまた別の話・・・

ところで昨日(5/17)、YouTube登録者数25万人を突破しました。本当にありがとうございます。

かてぃん (角野隼斗)

P.S. 皆さんの意見もお訊きしてみたいです。

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