命、それは君が見た光

こんにちは、7月にskebに登録しましたが未だに一件も依頼が来ていない菊麻呂です。

『うわ、なんかコイツ馴染みのない"挨拶"をしてきたぞ』
と思った方、なかなか鋭いですね。SHARPよりも。


今回の記事は比較的短いので安心(?)してください。というかナイーブな話題で長文をつらつらと書くのも気が引けるので… ACの話題よりは1000文字以上短いです。

多分自分のブログは誰も読んでいないと思うのでネガティヴな話題、""について思っている事をちょびっとだけ"呟きたい"と思います。それにこのアカウントは絵垢じゃなくてあくまでも趣味垢だし…(苦し紛れ)

というのも、なぜ人は死に関してこんなにも悩まなければいけないのだろうとふと思う時があります。

そう、事象としては命が1つ無くなるだけに過ぎないが周囲の人間に感情の波を際限なく押し寄せてくるあの"死"についてだ。生まれてきた人間は例外なく100%死ぬのに、それを知っていても身近な人や著名人が亡くなるとどうにもいたたまれなくなる。


初めに言っておくと自分はこれらの体験に実際に出くわしたことも巻き込まれたこともないので偏見とか余計な先入観が大いに含まれています。これらを体験したことがある人、コメント等あればお待ちしてます。

特に2つ目を体験したという貴方は相当に修羅の道を歩いていると思う


1,「看取る」という事について


これは看護師みたいな仕事でやっている人ではなく家族目線のお話です。想定としては、無理な延命治療をせず緩やかに「安らかな死」へと向かう場合を想定してほしい。

その際、死の間際に人を寄せ集める行為ってどうなんでしょうか?

自分が死ぬときに病院(もしくは家)に人を呼ぶってなるのは嫌だし、危篤の状態を知って家族が来てくれるのならまだしも、もう少し範囲を広げて親戚等いった、せめてそういう人たちには看取られずにひっそりと鬼籍に入りたいとさえ思っています。


というのも人の死は見世物じゃないし第一、人を呼んだのにそこで死ねなかったら何とも気まずいだろうと思うからです。看取ること=見世物と解釈してしまう自分も少しひねくれものだとは思うが…

死ねなくて困る、という表現が多分正しいのだろうが本人も周りも生きているのに困るなんて変な話であろう。


周りの人が、人の死をまだかまだかと待っているところに強烈な違和感があるし、自らの死をそんなに見せびらかしたい張本人にも困惑せざるを得ない。(死ぬ間際に自ら親戚一同を呼ぶのを望んでいるとするならば)

そこまでして自分の存在を相手に刻み込ませたいものなんだろうか、暑苦しくないのだろうか。



2,自殺について


個人的な意見として「死」という話題に関して一番悩まされるのは自殺という言葉についてですね。

人間だれしもが持つ心の中の「生きたい!」という叫びを無理にでも抗って押し殺しこの行為、自己破壊に及ぶことは、ある意味で称賛・尊敬に値するとも思うけどそれはさておき…..

その中でもこれから目の前で人が自殺していようといた時に私はどうしたら良いか、という問いは究極の難問と言っても過言ではないと自分は感じている

なぜ自殺がいけないのか?と深く考えるまでもなく、どんなに馬鹿な人でも自殺はいけないと考えるのは至極当然のことだと思っている。
しかしじゃあどうやって彼らを引き止めたらいい?


たまに、自殺しようとしていた所を引き止めて警察から感謝状を貰ったというネットニュースを見たりするが、言葉で表現するのは難しいが「なんだかなぁ」という気持ちにさせられる。当たり前の事をしただけなのに感謝状なるものを表彰しようとする警察の無神経さにはとても理解に苦しむ。


ネット内の風潮としては割と自殺を阻止した側と表彰について非難をする人がとても多い。中には「本人が自殺したいなら引き止めずにそのままタヒなさせてしまえばいい」みたいな中々香ばしいコメントもあった。コメントした本人が実際にその場面に出くわす事があれば同じようにそうするのだろうか?引き止めれなかった罪悪感は計り知れないと思う。
これは一つ残らず狂言だろう。

もしかしたら言い出すのが遅くて先に行為に及ばれてダメだったパターンもあるかもしれない。そういうわけで救える命と救えない命はあると思うが、救うか救わないかの線引きは普通しない。むしろあの極限状態で救えるのならめっけものだと思う。


しかしこれ、

相手の内情を何一つ知らない状態から始まるので既に難易度が尋常じゃないほど高い


もしここで相手の自殺を止めなければ一生罪悪感に苛まれるだろう、しかし何て声を掛けたらいいか分からない

無神経にただただ「人生が辛くても死んじゃダメだ!」というのは余りにも相手に対して酷だろう

生きていれば良い事あるなんていう綺麗ごとは言えないのである。現にその自殺しようとしている人は今まで生きていて良い事なんて無いと思ってきているのだから。(あるいは良い事に気づかないでいる可能性もある)


ちなみに自分が考える自殺してはいけない理由として

  • どうせ時期が来れば皆くたばるわけで無理に急いて事に及ぶ必要はないから。

  • 迷惑がかかるから。もし病気を患っていてこれ以上家族に迷惑をかけたくなくて自殺するのであればそれは間違いで、葬式の事や今後貴方のいない人生にしたことで家族が心に傷を負い迷惑だから。


が、これは割と普遍的な理由であって人それぞれ事情は違うので引き止める力はそんなに強くないと思う。人それぞれだからこそ、この問いが難問たらしめる所以なのだ。


そういうわけでこの難問に関しては適当な答えが見つからない。あるいはそもそも適当な回答すらないのかもしれない。




本当はここで終わらせても良いのだけど、関連してもうちょっとだけ書きたいことがあるからお付き合いくださいね。


以前読んだ本の中で面白い記述があったので最後に1つ紹介をば。それは、自殺を常に考えるのは、実は一番自殺(という行為)を遠ざける大きな要因でもあるということである。2,と視点を変えて、当事者になりそうになった時の場合だ。


自殺とは自ら命を絶つことだけど、これはつまり望めばいつでも実行することができる。現世から逃げ出すことが出来る。こう「ポジティブ」に考えることの利点の1つ目は、いつでも自殺することが出来ると考えることで、自分の人生を自分で支配している感覚が芽生えるという点。もう一つは、こう考えることでこれから先の人生が一種の余生になるという点。


そもそも我々は誰かに生んでくれと頼んだわけでもないのに、気づいたらこの世に産み落とされていた。理不尽に生まれて、理不尽に競争に巻き込まれ望まない人生の内容を歩んできた。

その中で唯一自分の意志で行えることが自殺だ。自由に出来て、これは自分の持つ権力と言っても過言ではない。この感覚が、妙に自分への尊敬・自信につながってくるという…


そして既に破綻してしまった(?)人生だから、どっちにしろ時期が来たら死んでしまうのだからここから先をささやかな延長戦だとしてしまえばいい。または自殺でいつでも逃げられるのだから、もう少し続けてもいいのではないか?という感覚になることもできる。 



かなり暗い話題(同時に一筋の光も見えないか?)になってしまったけど自分はこの意見には賛成したい。


少なくとも「前を向いて元気よく!」といった励ましているように見せかけて、無責任で自己満足のためのポジティブな助言よりもよっぽど役に立つと思う。



しかしそれよりも大事なことは常に自分のやりたい事、目標、やるべき事にもっと邁進していくことではないだろうか。すると否が応でも生きたくなるはずだ。


そして普段はあまり"死"という事象を意識しないまでも、意識すべき時はよく考えてみる。


上で書いた、暗く地を這いずり回るような生き方はそれ以上に進歩できる可能性はあまりないだろう。考え方としては賛成だけど。

どちらかと言うと、今まで取りくんできた全ての分野においても敗北の連続で生きる気力を失った人の最終手段的な側面がある。


結局のところ目標を持って自分の人生をどう生きていくか、それが大事ではないだろうか。 



では。



というか何だこの結論は


いいなと思ったら応援しよう!