amazarashi「アダプテッド」考
amazarashiの傑作アルバム『七号線ロストボーイズ』には「アダプテッド」というかなり挑戦的な楽曲が収録されています。
「難解」と評されることも多い歌詞ですが、それとは裏腹に、バチバチロックしている疾走感あふれるナンバーです。
たしかに明確に言語化できないという点では「難解」ですが、歌として歌詞を聞き流していると、曲の情景や意味みたいなところはぼんやりと見えてきます。
今回そんな「アダプテッド」について、無粋な歌詞解説をしていきます。多分長くなる
まずどういう歌か
まずどういう歌なのかを一言で言うなら、「少年性の喪失とその残滓について」もしくは「大人になるということ」です。
この曲の詞が厄介に聴こえるのは、「大人になった瞬間の少年のわくわくするイメージ」と、「大人になってしまった男の色々嫌気がさして少年の頃に戻りたがるイメージ」が混在していてカオスティックになっているからです。「大人」に対する眼差しが2種類あるんですね。
けれど、大筋は社会に揉まれながら四苦八苦している「僕」が、そんな中で輝かしい少年時代をフラッシュバックする、という流れの歌だと感じます。この解釈に則って1フレーズずつ見ていきましょう。
1Aメロ1
満たされなさに名前を付けたら 図らずとも幸福と呼ばれた
主義主張 躁鬱シャーマニズム 段ボールハウス居住サルトル
路線バス 錆びた車体 経年劣化する思考 欲情の二乗
麦藁帽子を掛けた軽トラ 初月無料 女子アナ プラウト
アダプテッド
「満たされなさに名前を付けたら 図らずとも幸福と呼ばれた」
これは大人になった「僕」が、少年だった頃を思い返して「あの頃は幸せだったんだな」と気付きを得ているフレーズです。
少年少女は皆満たされなさを抱えています。けど、それ故未来に希望を抱くことができたし、足掻いて突き進むことができた。当時は苦しいと感じていた思い出も、大人になった今思い返すと「幸福」だった。
また、この「満たされなさ」は「欲求」が有る故のものです。余談にはなりますが、バタイユという哲学者は「人間にとって最も不幸なのはあらゆる欲求がないことだ」と言いました。今現在の「僕」は欲求がなく、生きる力を喪失している状態だということも読み取れます。それは人間としては不幸な状態です。
「主義主張 躁鬱シャーマニズム」
主義主張は大人になればなるほど、歳を重ねれば重ねるほど肥大していくものです。「若い人のほうが柔軟性が高い」と言えば同意してくれると思います。
この「主義主張」に繋がる「躁鬱シャーマニズム」ですが、まぁまぁ難解というか解釈が必要ですね。
「躁鬱」はそのままです。無数の人の主義主張が行き交う現代社会。その流れはインターネットの登場によりさらに加速していきます。それ故躁鬱になってしまう。他人の主義主張に一喜一憂してしまう。
「シャーマニズム」はシャーマン、つまり呪術者、もしくは霊魂通信者による宗教の形態のことです。秋田ひろむの出身地、青森には「恐山」という名の霊場があり、「イタコの口寄せ」が行われています。イタコはシャーマンの一種で、死者を降霊する口寄せは、シャーマニズムの最たる例と言えます。
ではこの「シャーマニズム」がどう「主義主張」と繋がるのか。
「シャーマニズム」は隠喩です。死者や霊魂を降ろしたり憑依させたりして話すのがシャーマニズムなので、他者の言葉をあたかも自分の言葉かのように話す「主義主張」をシャーマニズムに見立てているのだと思います。
大人になるとそういうことが多くなると私も感じます。偉い誰かの言葉をあたかも自分の主義主張のように話してみたりしますし、接客用語とかビジネス用語は真正の自分の言葉ではありません。そういう事態を「躁鬱」だと感じているのでしょう。
「段ボールハウス居住サルトル」
ここはメーデーメーデーの「中古本屋で百円均一のハイデガー」と似た表現です。そのため、サルトル及び実存主義に関する知識が必要です。
サルトルと言えば「実存は本質に先立つ」という言葉で有名です。この言葉は実存主義を端的に表しています。
「実存」は人間全般のことだと思ってください。「本質」はそのものを物語る性質のことです。実存である人間は、前提として「本質」を持ちません。自分で自分の存在の仕方を行動によって決めることができます。このような存在をサルトルたち実存主義者は「実存」と呼んでいます。「自分の生き方は自分で決めるぜ!」というノリは人間特有のものです。(参考↓)
一方「段ボールハウス居住」はホームレスを象徴する言葉でしょう。ホームレスは資本主義という社会システムのために家を失ってしまった人間です。サルトルのように「自分の生き方は自分で決めるんだ!!」と意気込んで行動をしていくのは素晴らしいことですが、実際は生活との兼ね合いや、社会経済と折り合いをつけて行くことが求められます。それでも「サルトル的」な生き方を貫いた結果、段ボールハウスへと転落してしまう、そういう皮肉めいた言葉なのだと思います。資本主義を根底に持つ現代社会では、サルトル的な生き方はとても不可能なのです。
「路線バス 錆びた車体 経年劣化する思考 欲情の二乗」
路線バスは1日中同じところをぐるぐる回ります。そんな路線バスのように同じことを何回も何回も繰り返し考えていくうちに歳は取るし(錆びた車体)、思考は劣化していきます。ここらへんは「吐きそうだ」を彷彿とさせられます。あの曲も堂々巡りの思索を歌にしています。
「欲情の二乗」は「リビドーの肥大」とも解釈できますが、あえてそれ以外の欲も含ませていることにします。この「欲情」は先ほど述べた「欲求」とは別の概念です。「欲求」は生理的・心理的不足を埋めようとする心の働きですが、「欲情」は単に物欲のことで、「欲求」よりも俗的な欲全般のことだと思ってもらえるといいです。この欲は、大人になるほど高まります。自分でお金が稼げるようになったりして幾分自由になって、「満たされなさ」という歯止めを喪失するからです。
「麦藁帽子をかけた軽トラ」
「麦藁帽子」は「少年」や「青春」を彷彿とさせます。一方「軽トラ」は「労働」の象徴でしょう。
軽トラを走らせて金を稼ぐ毎日でも、「僕」は少年の頃を忘れてはいません。でも自分で麦藁帽子をかぶるわけではない。少年の頃のように生きることはままならないようです。
「初月無料 女子アナ プラウト」
一見脈略もなく挟まれるような3語ですが、なんとなく一貫性があります。まず「プラウト」について説明します。
全く専門分野ではないので間違っていたら指摘して欲しいのですが、「プラウト」はインドの思想家であるサーカーが提唱した「進歩的活用理論」のことです。インターネットを軽く漁った程度では到底詳しくは知れないですし、このサーカーさんの関連本もあまり図書館には無かったのでざっくりとしたことしか言えないんですけど、とにかく新しい経済体制や社会システムを打ち立てることを謳っています。私が調べた限りでは、「今現代の資本主義はもう超越して次へ行くべきだよね」「そして何よりそれは健康な人間のために万全であるべきだよね」みたいなそんな感じです。(参考↓)
この「プラウト」は「僕」が縋りたいと思うものの一つなのかもしれません。
先ほど話した通り、資本主義をベースとしている現代社会では、サルトル的な、人間らしい生き方には必ず限度があります。ここは全くの私観なのですが、なんで限度があるのかというと、基軸が実存の外、つまり社会の側にあるからなんですね。実存として存在するためには、自分だけの基軸や価値判断を自分の内側で打ち立てることが求められます。
「プラウト」は、人間に寄り添った社会の在り方を提唱しています。人間を第一にしているため、基軸が社会の側にないんです。つまり、プラウトが適用される社会では、サルトル的な生き方が許容されるのです。
では次に「女子アナ」。
これはルッキズムと学歴の象徴です。ルッキズムと学歴、この二つは、実存の外に存在する判断軸です。
文化や環境が変われば「美人」の定義も変わるように、「ルックスが良い」という価値判断は私たちが生まれつき持っているものではありません。社会を生きていくうちに、後から、そして外から埋め込まれたものです。「学歴」もそうです。
「自分は美人だ」「自分は学歴が高い」という存在の是認は、他者からの承認が必要不可欠である、というと分かりやすいでしょうか。自分で自分のことを「美人です!」「学歴高いです!」と宣言しても滑稽でしかありませんよね。
つまり「女子アナ」は「非プラウト的」な世界、つまり今現代の世界の象徴として置かれているのです。
「初月無料」はそのままですね。「初月無料」という宣伝のうたい文句に誘われてサブスクに加入したり、とか結構ある話です。これもかなりの私感ですが、そういう言葉に誘われてまんまと契約してしまったりするとき、資本主義に負けたな~……と思ったりします。「僕」が「初月無料」にどういう思いを持っているのかはわかりかねますが、「女子アナ」と並べているのを見るとかなり冷笑しているのではないかなと思います。
逆に、「僕」は「プラウト」的な世界を望みながら、一方では女子アナの話を人としたり(あの女子アナみたいな人がタイプなんだよな、みたいな)、「初月無料」という言葉にはまんまと乗せられてしまったりしているのかもしれません。そういった相反する「僕」の二つの在り方を描き出しているのではないか?という解釈もできます。
「アダプテッド」という語については後述です。
1Aメロ2
立ち食い蕎麦 神降ろしにて食し ウインドウズ 便箋 世は情け
過大評価 過小評価 キルユー 宙ぶらりん 文庫 シティーライト
出会いと別れ切符切りそびれ ホスピス横たわり終末医療
患った不治の病、青春 あの夏の尻尾掴みたい
アダプテッド
「立ち食い蕎麦 神降ろしにて食し」
「立ち食い蕎麦」というと、勝手に労働者の飯というイメージがあります。手軽に短時間で済ませられる食事です。「神降ろし」は巫女が神を自分に憑依させることを指しています。神降ろししてまで立ち食い蕎麦を食べなければならないくらい、とても急いでいる、もしくは忙しさに追われているのでしょうか。
「ウインドウズ 便箋 世は情け」
「ウインドウズ」はOSの「Windows」でしょうか。それと対比させて「便箋」という語に繋いでいます。
「ウインドウズ」では人に伝えるために様々な資料を作ったり情報をまとめたりできます。「便箋」も同じく手紙を書くため=人に伝えるためのものですが、この二者では「人に伝える」のニュアンスが違ってきます。「僕」が「僕」として人に何かを伝えることができるのは明らかに「便箋」のほうでしょう。
「世は情け」は、何事も助け合いが大事であるという意味ですが、上の句の「旅は道連れ」が抜け落ちています。旅=人生の同行者がいないということの暗示でもあるのかもしれません。
「過大評価 過小評価 キルユー」
ここはそのまんますぎてウケますね。「キルユー」は「fxxk you」みたいなニュアンスってことで受け取ってます。
「宙ぶらりん 文庫 シティーライト」
「宙ぶらりん」と聞くとamazarashiのマスコット(?)キャラクターを思い浮かべますが、ここには二通りの意味があるなと思います。一つは、夢を追い求める「少年」と、社会でまともにやっている「大人」の二つの側面を持ち合わせていてどっちつかずである、という意味。
もう一つは、首を括って宙に浮いている、という意味での「宙ぶらりん」です。この場合、首を括って死んでいるのは少年の頃の「僕」です。
「文庫」というワードが何故ここに挟まれているのか、これまた私感が強くなりますが、「文庫本」は私の中で「手軽に持ち歩ける思想」です。出かけ先で読むわけではないけれど文庫本を持ち歩いている身からすると、この「文庫」は、社会に揉みくちゃにされる「僕」の中の少年が、ささやかな反抗として持ち歩いているもの、というような意味合いに聞こえるのです。この域まで来ると妄想です。何の本なのか気になる。
「シティーライト」というワードからは、「僕」が都会で汗水を垂らしていることが窺えます。「眠らない街」みたいな定表現もあるので、「忙しなさ」の表現でもあるのかも知れません。
「出会いと別れ切符切りそびれ」
人生は出会いと別れを繰り返していきますが、「僕」には切符を切りそびれた別れがあります。後ろ髪を引かれる別れです。そういった後悔や後腐れなど種々の思いが残った別れのせいに、「僕」は少年の「僕」を捨てきれていないのかもしれません。
「ホスピス横たわり終末医療 患った不治の病、青春 あの夏の尻尾掴みたい」
「ホスピス」は死にゆく患者の症状の緩和、精神的ケアに重点を置いた病院、みたいなイメージです。「終末医療」も同義です。「青春」という名の病に罹っているみたいです。この病は不治でもあります。
またバタイユの話で恐縮なのですが、バタイユは「欲求がないこと」を「悪性の病」と評していました。しかし、この歌のこのフレーズでは「欲求」に溢れた「青春」及び「少年期」のことを「病」としています。バタイユの主張とは真逆です。このことから察するに、病であると断定しているのは、「僕」に労働と少年としての自己の殺害を求める社会の側であって、「青春が病である」というのは社会の都合によって捻じ曲げられた事実でしかないのです。
この上記の解釈に則ると、「ホスピス」が何のメタファーであるかも自ずと見えてきます。つまり、「大人」として生きることを強要する「社会」という場そのものを「ホスピス」という語に置き換えているのだと思います。少年の頃を引きずって生きている「僕」にとって、社会や世間は死にゆくための場所でしかありません。生き生きとした生を全うすることができない息苦しさ、それを「終末医療」のようであると表現しているのだと思います。
ここはまた別の解釈もできます。
「青春」は二度と戻ってきません。それでもあの頃を求め続けてしまう。そういう意味で「不治の病」です。「あの夏の尻尾掴みたい」というフレーズがこれに該当します。「あの夏」は言わずもがな「青春」のメタファーでしょう。
1Bメロ
森の呼ぶ声を聞いた 僕は死んだ
真夏にあの子抱いた一夜
「森の呼ぶ声を聞いた 僕は死んだ」
先ほど「シティーライト」というワードが出てきたように、「僕」は都会で労働をしながら生活しています。そんなビルの谷間で生きていると、ふと故郷へ帰りたくなったりします。それが「森の呼ぶ声を聞いた」なのだと思います。
また、この「森」は望郷の象徴であり、少年期の象徴でもあると思います。「故郷へ帰りたい」と思うと同時に「少年の頃に帰りたい」とふと思う。けれども、少年だったかつての「僕」は死んでしまった。それ故どう足掻いてもあの頃に帰ることは叶わない。
いつ死んでしまったのか。それが「真夏にあの子を抱いた一夜」です。
2Aメロ
社用車で昼食ついぞ嘔吐 なんだかんだあって今、水死体
身辺整理 七つ目の夜に 鉄道唱歌 口ずさみ行こう
惚れた腫れたの日銭物乞いに 南無阿弥陀仏 漁船 夢違え
死ぬには広すぎる海底では ただよっている ただ酔っていアダプテッド
「社用車で昼食ついぞ嘔吐」
「嘔吐」してます。これまた「吐きそうだ」を思い出しますね。
また、先ほど出てきたサルトルという哲学者の著書の中に同名の小説が存在しています。(参考↓)
もうすでにはっきりと「サルトル」というワードが出ているので、サルトルの『嘔吐』とこの個所を結びつけて考えるのは必然でしょう。
サルトルの小説における「嘔吐」は、自分が無意味な存在であるということがわかってしまう不気味さや気持ちの悪さから来ています。「僕」が「社用車」で嘔吐してしまうのも同じ理由とみていいでしょう。「社用車」は無論「軽トラ」と同じように「労働」の象徴の一つです。そんな場で昼飯をかっ喰らう自分を俯瞰したとき、存在の無意味の恐怖に襲われるのは理解できると思います。
「なんだかんだあって今、水死体 身辺整理 七つ目の夜に」
ここは「七つ目の夜」というワードが重要です。というか、2Aメロは全体的にこのワードありきです。
ここは、元ネタに夏目漱石の『夢十夜』という小説を置いています。読んでみると、「アダプテッド」はこの小説をもとに書いたんじゃないかと思うほど多くの共通のモチーフが出てくることに気付きます。青空文庫で無料で読めます。短いので読んで。(参考↓)
大まかなあらすじは、どこに向かってるんだかわからない大きな船に乗っている主人公が、つまらなくなって海へ身投げする、というものです。
この話を「アダプテッド」という曲に当てはめて考えてみます。「どこへ向かっているのかわからない大きな船」というのは「僕」が属している社会全体のことです。「僕」は「青春」という病を患っているので、その船にいる乗合たちが全員「異人」のように見えます。amazarashiにおける「夕焼」は「死」の象徴です。日が沈む「西」へ向かう船は、死に向かう「終末医療」を思わせます。
そんな船にいることが厭になって海に飛び込む、つまり社会から離脱することを選ぶ。それが「なんだかんだあって今、水死体」に繋がっています。
「身辺整理」は海へ飛び込む間際、つまり自殺の直前に身の回りを整理することを指しているのでしょう。
「鉄道唱歌 口ずさみ行こう」
「鉄道唱歌」は実在するめちゃくちゃ長い曲で、また日本の地名がたくさん出てくる曲です。異人たちがたくさん乗り合わせた船の上でそういったローカルな歌を口ずさむことは、自分が「日本人」であることを喪失しないためだと取れます。勿論この「日本人」は「異人」と同じようにメタファーです。「異人」は「船」=社会の上に跋扈する「大人」のことなので、「日本人」は「少年」のことです。自分を忘れないための「鉄道唱歌」。
「惚れた腫れたの日銭物乞いに 南無阿弥陀仏」
「惚れた腫れたの日銭物乞い」はかつての少年の「僕」のことでしょう。大人になると打算的な恋愛しかできなくなります。「惚れた腫れた」をまともに語ることができるのは少年の頃だけです。そして若い頃はまともにお金を稼げません。ただ欲求だけを燻らせます。そんなかつての「僕」に「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えている。これも少年の「僕」の死の表現です。
「漁船 夢違え」
両方とも『夢十夜』の「第七夜」を彷彿とさせられる語です。あちらはただ「大きな船」でしたが、「漁船」となるとそれに「労働」のニュアンスも加わってくるような気がします。
「夢違え」は悪夢を見たときにそれが正夢にならないように唱えるまじないみたいなことらしいです。「第七夜」=自死が本当にならないことを願っているのでしょうか。
「死ぬには広すぎる海底では ただよっている ただ酔っていアダプテッド」
「船」が「社会」のメタファーであるなら、「海底」はそこから離脱した場であると考えられます。この場合の「死」は社会的な自分の「死」と解釈できると思います。「社会」を脱ぎ去って自分で生きていくことはとても難しいことです。それはだだっ広い海の果てのなさを思わせます。そこでは漂うことしかできません。
それ故「僕」は「海」へ身投げすることができておらず、「船」の上でただ酔っているようです。この「船酔い」は「嘔吐感」を伴います。
2Bメロ
夕闇彼方が燃えた 僕は死んだ
あの子が世界を変えた一夜
「夕闇彼方が燃えた 僕は死んだ」
「夕焼け」や「夕日」は、amazarashiにとって「死」の象徴です。『夕日信仰ヒガシズム』とか。何が死んだのかは1Bメロで言及したのでわかると思いますが、勿論「少年の僕」です。「夕闇彼方が燃えた」という描写からわかるように、あたりは段々暗くなってきていて、遥か遠くで夕焼けの赤が見えていて、日が沈む直前くらいの時間ですね。少年から大人になる瞬間をこのような情景に押し込めています。
Cメロ
煌々と燃えたる朝焼けの 照らす窓辺に
古新聞 古雑誌 古自分 古自分
苔むす生に串さして 哲学たちんぼとおりゃんせ
とおりゃんせとおりゃんせ 笑う音がいとおかし
あなたがいれば死んでもいいか 死んだらどうか 相談しようそうしよう
「煌々と燃えたる朝焼けの 照らす窓辺に 古新聞 古雑誌 古自分 古自分」
「夕焼け」が死のメタファーであるなら、「朝焼け」は再生のメタファーでしょう。少年としての「僕」が死んで、新しく「大人」としての「僕」が生をスタートさせます。
言わずもがな「古自分」は今は亡き少年期の自分のことです。もう元には戻らない少年の自分を完全に捨てきることができず、古新聞や古雑誌と一緒に窓辺に放っているようです。
「苔むす生に串さして 哲学たちんぼとおりゃんせ」
「苔むす」は時間経過の表現です。歳を重ねた自分のことを「苔むす生」と表現しています。
「串を刺す」は「哲学」が「生」を食べ物にしていることの表現だと思います。ここは確信がないです。「哲学」は英訳すると「フィロソフィー」です。amazarashiの楽曲の中にも同名のものがありますね。
その中に「傷を負った君だからこそのフィロソフィー」というフレーズが出てきます。「フィロソフィー」は人生を経たからこそのものであるわけです。言い換えると、長い時間をかけて積み上げてきた「生」故の「哲学」なわけです。そのことを「苔むす生に串さして 哲学たちんぼ」と表現しているのだと思います。
「たちんぼ」は最近話題に上がることも多いと思うのでご存知だと思いますが、「娼婦」のことです。しかし語源を調べてみると、「昔、坂のある道端に立って、通る車の後押しなどをして手間賃を稼いだ人」とあります。個人的には「娼婦」の意よりもこっちのほうをとりたいです。後に「とおりゃんせ」と続いているのを見ると後者の意味でしょう。
自分が長い時間を積み重ねて培ってきた、生きる上での「哲学」が、「とおりゃんせ(通りなさい)」と言って自分自身のことを後押ししている、そんな感じだと思います。
「娼婦」としての「たちんぼ」も、そえはそれで面白い解釈です。現代社会になって、「哲学」の地位というか立場みたいなのが没落してしまった、みたいな意味合いになります。その場合「段ボールハウス居住サルトル」と重なります。
「とおりゃんせとおりゃんせ 笑う音がいとおかし」
ここは童謡「とおりゃんせ」からの引用で、同曲の歌詞の意味を理解する必要があります。様々な解釈がありますが、個人的には以下のサイトの解釈を採用したいです。(参考↓)
昔、子供は7歳まで生きるのが難しく、子供を7歳まで「神の子」であるとして、幼くして亡くなった子は「神の元へ帰った」ということにして慰めていました。しかし、7歳以降は「人の子」になります。七五三という行事は、神に対して「この子を私の子とお認めください」と許しを請う行事なわけです。「とおりゃんせ」もこの七五三へ向かう場面を歌にしています。七歳になった子は、一人の人間として生きていくことが求められてきます。だから「帰りは怖い」。人の世で人として生きることは厳しいよ、というのが「とおりゃんせ」という歌です。
これを「アダプテッド」に当て嵌めるとかなりしっくりきます。「神の子」から「人の子」になることを、「少年」から「大人」になることに見立てているのです。
こういう内容の歌であるにも関わらず、童たちが笑いながら歌う。この先この童たちが行く道の険しさの暗示でもあるのに、そのことを知らないで歌っている。そういう風景は「大人」として生きる厳しさを知っている「僕」からしたら「いとおかし」なわけです。
「あなたがいれば死んでもいいか 死んだらどうか 相談しようそうしよう」
これまた童謡「花一匁」からの引用です。(参考↓)
「一匁」は通貨の単位で、「花」は少女の隠喩です。自分の子を身売りに出すことを歌った歌です。
ここも、少年の「僕」の死に置き換えています。少年の「僕」が死んでしまうこと、それを子供を売りに出すことと重ねているのです。「大人になること」は社会に自分を売ることと同義です。
「あなたがいれば死んでもいいか」という歌詞は、一見決意に溢れた歌詞に見えます。しかしそれを打算的な金銭的価値判断で「相談しようそうしよう」と結んでいるのがかなりの皮肉です。そういった経済的な基軸が紛れ込むのも「大人になる」ということなのでしょう。ここの「あなた」についてはサビで後述します。
サビ
きらめく星空は 僕らを貫通してった弾痕 天の川は創傷
世界に二人だけ 観念だけになって 口角を上げた夏 絶唱 絶唱
サビだけは際立って情緒的で異質です。
ここはBメロの「真夏にあの子抱いた一夜」と「あの子が世界を変えた一夜」について歌っています。この「一夜」は、「僕」にとってかなり大切な思い出みたいです。
どんな思い出なのかについては詳細に言及されていませんし、サビでもかなり詩的表現でぼかされていますが、個人的解釈、ここは「僕」にとっての初体験のことを歌っていると解釈したいです。「あなたがいれば死んでもいいか」はこの初体験の相手のことだと思います。
この初体験の記憶は「僕」が少年から大人になる契機でした。少年の死である「夕焼け」と、大人としての自分の再生である「朝焼け」の間に「夜」が位置していることが示唆的です。
そしてこのサビで印象的なのは、星空にまつわる表現です。明らかに「美しい夜」の象徴ですが、それと同時にその星空は「弾痕」であり「創傷」、「傷」の象徴でもあるみたいです。「大人」になるということは、少年の「僕」からは星空のように煌めいた記憶である一方、すでに「大人」になった「僕」からは傷ついた記憶でもあります。
「アダプテッド」とは
ようやく曲の根幹について言及していきます。
「アダプテッド」は英語表記にすると「adapted」で、「adapt」の過去分詞形になっています。「adapt」は「適合させる」とか「改造する」とかそんな意味です。
もうここまで読んでいただけたならなんとなく「アダプテッド」のニュアンスはわかると思うんですけど、「大人」になって社会に出て、労働に身を費やす「僕」は、世間に合わせて「改造」されて「適合」させられる、それを何度も何度も目まぐるしく繰り返しています。その状態を「アダプテッド」というただ一語に押し込めているのです。
少年の頃は「僕」が「僕」を生きることは容易でした。ですが、「大人」になった瞬間、そのようなある種のサルトル的な生き方は許容されず、社会や経済や世間や生活が「僕」に対して「適応する」ことを求め続けます。2Aメロで「七つ目の夜」という言葉が出てきましたが、これも「アダプテッド」と絡めると理解しやすいです。異人だらけの船に乗り合わせて一同が「西」へ向かう。それに同調することを求められますが、その「同調」には「改造される」ことも含まれており、それが厭になって海に飛び込みたくなる。けれども死ぬことは到底できなくて、漂っているしただ酔っている。
しかし、この歌がそうした「アダプテッド」=「社会の犠牲になる自分」に対する悲観だけに塗れた歌なのかと言うとそうでもないです。ところどころ少年の頃を思い返したりして完全に「アダプテッド」に染まりきらない「僕」を描いています。「麦藁帽子をかけた軽トラ」などがそうです。
また、サビの「あの子が世界を変えた一夜」を心に持ち続けることで、「僕」は「アダプテッド」に果敢に立ち向かおうとしているようです。少年の頃の僕はもう死んでしまった。けれども、少年の頃の特別な思い出を心に持ち続けていれば、「僕自身」が死んでしまうことはありません。そういうプラスのニュアンスがこの歌の曲調に繋がっていると思います。
余談
ここまで書いてから付属詩を見返したんですけど、温度感にギャップがありすぎてビビります。付属詩も絡めて考えようと思っていたんですけど、そうすると全てがひっくり返るのでちょっとやめておきます。
おわ!
おわりです。「いや、この歌詞に大した意味はないよ」といわれてしまえばそれまでだしそれはそれで同意できるのですが、考察とか解釈とかいうものはそういう無粋なものです。意味ないものに意味をこじ付けるお遊びです。それに、秋田さんの無意識から捻り出された言葉の羅列だとしても、それが意識の域にまで浮揚してきたことには何かしらの意味があると思います。
あと毎回言いますが、あくまで一種の解釈であり私的な聴き方なので、そこらへん了承願います。「こういう解釈もあるよ!」みたいなのは好物なので教えてね。
ここまで読んでくれてありがとう!らぶ
追記
追記です。
この文章でこの曲においての「夕焼け」を「少年としての僕の死」と解釈しましたが、何回も聴いている内にそれだけに留まらないんじゃないかな、と思い始めました。
「アダプテッド」すること、「適合」することは「都度自分が死ぬこと」であるような気がします。社会や世間の都合に合わせて自身を改変することは、それまでの自分を捨てること、つまりそれまでの自分が死ぬことと同義なわけです。
この解釈に則るとCメロの「あなたがいれば死んでもいいか死んだらどうか相談しようそうしよう」がよりしっくりきますし、「都度死ぬこと」がこの曲の目まぐるしい曲調につながっている気もします。
以下は余談ですが、この「都度死ぬこと」の象徴として「夕焼け」を置いている曲は他にもあるな、と気付きました。
「スワイプ」です。
この曲の中で最も印象的なフレーズといえばやはり「暮れる陽を止めろ」ですが、この「暮れる陽」を「アダプテッド」して都度死ぬ自分の象徴として捉えると、「止めろ」と呼びかけているのにも頷けます。
全く同じ「夕焼け」ではありませんが、「アダプテッド」と似ているな〜と感じるものに「自由に向かって逃げろ」があります。
こちらも少年の頃と社会人の今を対比させて描いており、その上で「僕等の言い訳どうか暴いてよ夕焼け」と歌います。この場合の「夕焼け」は「死」の象徴ではなくて、「大人の僕」を「少年の僕」から引き剥がす役割を持っています。「大人の僕の死」の象徴と言い換える事も出来るので、「アダプテッド」のアンチチェンジとも言えるかもしれません。
追記2
すいません、何回追記すんだよって感じですけど、解釈が変わり次第書き足していきます。
「躁鬱シャーマニズム」に付いてです。なんか凝った解釈をしていましたが、ここは単に、躁鬱状態の自分がまるで中の人間が入れ替わるシャーマニズムのようではないか、と自嘲するフレーズな気がします。
躁鬱によって主義主張もコロコロ変わる自分……。明確な自己の不在。それは躁鬱によるものに限らないような気がします。なぜなら「僕」の中には少年と大人が混在しているからです。
追記3 - 「拒否オロジー」との関連
1Aメロ2の「文庫」というワードについて、かなり個人的な事情を濃いめに混ぜて話しましたが、これを他のamz曲で裏付けるとするなら「拒否オロジー」の一節が挙げられるのではないかなと思いました。以下、引用させていただきます。
結果、多くの証明を反故にされた私たちは
ついには瞳を濁し
その青い栄光と失敗にブックカバーを被せ
雪が降る朝のプラットフォーム
出勤前の束の間の空白にかじかんだ手でページめくれば
あらゆる行間に孤独が住み着いたのだ
私の叙情も感傷も、果たせなかった拒絶である
「青い栄光と失敗」に「ブックカバー」を被せています。
「青い栄光と失敗」は、言うまでもなく「アダプテッド」における「僕」の少年期のことです。それにブックカバーを被せている。つまり本を、少年期を振り返るためのもの、もしくは少年期を忘れないためのものとして登場させているのです。
「文庫本」であるかは不明ですが、出勤前に駅で読んでいるので、単行本よりは文庫本であるほうが自然でしょう。
他の箇所も見てみましょう。
「多くの証明を反故にされた私たちは ついには瞳を濁し」
「証明」とは自分という実在の存在証明のことでしょう。音楽だったり、人によっては絵だったり文章だったり、そういうもので自分という人間を「証明」しますが、大人になって「アダプテッド」することが求められてくると、そうした数多くの少年少女による「証明」は反故にされます。
「雪が降る朝のプラットフォーム 出勤前の束の間の空白にかじかんだ手でページめくれば」
雪が降っているので間違いなく冬の情景ですね。「アダプテッド」では少年期の象徴として、「夏」がちょくちょく登場していました。それに則って考えると、「冬」は少年とは真逆の、労働に身を費やす社会人、もしくは「大人」の象徴でしょうか。
また、「朝」です。「アダプテッド」では、夕焼け=少年の「僕」の死、朝焼け=大人の「僕」の再生として置いていました。そういう観点から見ると示唆的な「朝」です。毎日社会に揉まれて「都度死ぬ」自分が、「アダプテッド」してまた生き返らされるのです。
「私の叙情も感傷も果たせなかった拒絶である」
「叙情」も「感傷」も少年期に特に顕れるものだと感じます。それを「果たせなかった」と言っています。果たせていたらプラットフォームで文庫本なんて括ってないわけです。
どうでしょう。「拒否オロジー」のこの一節、結構「アダプテッド」的ではないでしょうか。
「拒否」も「アダプテッド」することに対する「拒否」と捉えるとよりしっくり来る気がします。
また、更なる余談妄想ですが、拒否オロジーはこのような一節で締められています。
応答せよ、応答せよ
檻を蹴破れ、服役囚よ
そしてamazarashiの前身バンド、あまざらしの楽曲「闇の中〜ゆきてかへらぬ〜」から引用させてください。
牢屋の少年は月夜に口笛
ここから「拒否オロジー」の「服役囚」=「少年」であると妄想できるわけです。牢屋にいるのは少年(=服役囚)であり、檻を蹴破るのは服役囚(=少年)です。「アダプテッド」=大人となった自分であるなら、「拒絶」=少年の自分ではないでしょうか。
また、「ロストボーイズ」という楽曲では、「少年は闇の中」「大人は少年を隠すけど真夜中が暴くから」とあります。「少年」を檻の中に閉じ込めるのは「アダプテッド」する大人の自分です。
「拒否オロジー」は、「アダプテッド」した大人たちの中に閉じ込められた少年(服役囚)に対して、「応答せよ」と呼びかけている曲であるとも解釈できるわけです。
追記4 - 「抒情死」との関連
これはこの記事にコメントしてくれた人に教えてもらったのですが、「アダプテッド」の2番とよく似てるメタファーが歌われる歌があります。「抒情死」です。以下該当箇所を引用します。
アイデンティティが東京湾に浮かんでいる
巡航する豪華客船のその波で 浮遊してる やがて沈む
物珍しそうに 乗客は人だかり
助けるべきか? いや、あんな得体のしれないものには触れるな
あれはなんだ? あれはなんだ? あれはなんだ? あれはなんだ?
「アダプテッド」の2番では夏目漱石「夢十夜」の「第七夜」を引用して歌っていましたが、たしかに「抒情死」のこの個所もひどく似ています。
「東京湾」は海であり、「アダプテッド」と同じように社会から脱落した場のメタファーです。また、「豪華客船」=資本主義社会の象徴で、その乗客は恐らく「アダプテッド」における「大人」であり「第七夜」における「異人」です。そしてその「海」には「アイデンティティ」が浮いています。「アダプテッド」すること、それは社会に迎合し帰属することです。そうした結果アイデンティティを失いがちになってしまいます。「豪華客船」の上の乗客たちは「あれはなんだ?」と眺めています。彼等のように、社会へ「アダプテッド」した人間たちは、アイデンティティを失ってしまった人間であり、そしてそのことに非自覚的なのです。
また、この曲のCメロも「アダプテッド」を彷彿とさせられます。
それなのに自分を無くせって 従えって 我慢しろって
強い風に吹き飛ばされて落ちた 東京湾
「自分を無くせ」「従え」「我慢しろ」
これは明らかに「アダプテッド」=適合することを求める社会の言葉でしょう。そうして「強い風」に吹き飛ばされてアイデンティティを失ってしまう。「アダプテッド」のほうでは自ら海に身投げするかどうかであり、自分全体の投げ身が問題でしたが、「抒情死」ではアイデンティティの喪失=部分的な自分の喪失、しかも是非を問わぬ喪失をこのように表現しています。
かなりに似ていると思います。