長谷川白紙「ユニ」の歌詞を考える
長谷川白紙の「ユニ」っていう神曲があるんですけどその歌詞に対する考えがまとまってきたので文章にしたいと思います。
Official Audioはこれ↓
考えるも何もこの曲はタイトル通りの曲だし、長谷川白紙の詩は明確に言語化することすら野暮になってしまいそうではあるのですが、まぁ一個人の解釈として大目に見てやって下さい。考察とか大仰なものでもないので。
個人的妄想を多分に含みます。注意です。
では早速。
ここはそのままですね。ぱゅが「君」に対して呼びかける。
「わたし」に対する他人からの評価は人の数だけあるわけだけれど、オリジナルの「わたし」はたった一つの筈だと。
蜻蛉に歯はありません。蜻蛉は顎でものを食べます。
「歯のある蜻蛉」というワードからは、常識から外れた存在だとわかってしまうことの恐怖というか不気味さというか…そういうものを感じます。
「わたし」が「歯のある蜻蛉」みたく常識を逸脱した存在であると知ることは、先入観とかの破壊なわけで、自分の認識を改めないといけない。それが「いやなんでしょ」と呼びかけています。
(こういう感覚的なワードが多いので長谷川白紙の詩の考察は野暮なんです)
毒がごはんを食べるって何ぞや、と思いましたがこれも「歯のある蜻蛉」のように普通は考えない組み合わせの語というか、違和感のある語として登場させたモチーフなのではないでしょうか。
「毒」だろうとなんだろうと「皆と同じようにごはんを食べてるよ」とぱゅは呼びかけます。
その真実を、「わたし」のあるがままの実像を見て欲しいと訴えかけますが、「君」は見ようとしません。
どうやら本当の相手の姿を知るということには痛みを伴うようです。
何故()が付いているのかわかりませんでした。(手)と(目)はなんとなくわかるけどなんで(帯)も…。と思いました。
「手と手で交配した筆記の閨」。
これを聞いて私が真っ先に思い浮かべたのは戸籍や住民票…()。
「わたし」は手で書かれた紙によって定義され、カテゴライズされうるものではないんだよ、というメッセージを勝手に感じたんです。
閨とは寝室、特に夫婦の寝室を指すそうで、まぁつまり夫婦間の営みが行われる場所です。
「わたし」は「手と手の交配」、つまり書類等々を通してつくられたものではなく、確固とした生き物なんだ、という主張なんじゃないでしょうか。
ここらへん言語化が難しい……!
けどまぁ大体そんな感じです。
刺繡の花、これまた感覚的に受け取るしかない語ですね。
私は刺繡と聞いてなんだか縛り付けられるようなそんなイメージを持ちました。誰かのために装飾として縫い合わされるぱゅ…。
では「花」とはなんでしょう。
ぱゅは「刺繡じゃないから」ではなく「花じゃないから」と歌います。
ここの「花」は植物の生殖器官として挙げられてるのではないでしょうか。
この歌では「交配」や「閨」などの語からそういう風に連想させたり、「薄紫」という語からどっちつかずのジェンダーを思わせたりしているという風に感じます。
(最初聴いたとき「えろ…」って思ったんですよね。間奏とか…)
という風に妄想してみると「花じゃない」というのは中々思い切った発言な気もします。
「わたしは子孫を残すための器械じゃない」みたいな。
ここからも「わたし」としての「わたし」を見てという思いが感じられますね。
「きみ」はどうやら目を閉じて本当の「わたし」を見ようとしてない、否本当の「わたし」を見ることを恐れているようですね。
「凡ゆる明日」というのは不確定且つ無限に広がる未来というそのままの意味でしょう。
他人のありのままの真実を見るということは「凡ゆる明日」のように眩む、つまりとてつもない量の可視光線を受けるということなのでしょう。
「わたし」は光を放ち自らを解き放っています。
何も隠し事はしてないみたいです。
「わたし」が「闇」に見えるのは「きみ」が目を閉じてるせいだと。
(帯)はこれまた「刺繍」のように「わたし」と装飾を縛るもの、というイメージを持ちます。
友人の話で面白いと思ったのは「この(帯)は本の帯のようなものではないか」という考え。
本の帯は本の中身を知らない人たちに先入観や第一印象を与えます。
そういうレッテルのようなものが(帯)なのではないか、という考えです。
しかし私はこの(帯)はポジティブなイメージなのでないかと推測します。
ファッションも「わたし」を形作る重要な要素で、(帯)は「わたし」が今まで吸収したり影響を受けたりしたものと「わたし」とを繋ぎとめるものなのではないでしょうか。
「わたし」自身が刺繡などの装飾なのではなくて、「わたし」の装飾は「わたし」の一部だ、という考え。
言葉にするとちょっとややこいですが。
(目)と(目)は左右の眼のことでしょう。
目は左右セット揃って遠近感を掴みます。
そして望遠鏡。
私は望遠鏡と言うとどうしても天体観測を思い浮かべます。
「きみ」が「わたし」を見るためには望遠鏡が必要なのでしょうか。
人と人の距離は宇宙の中の星と星の距離程遠い、みたいな妄想をしました。
そこで見えてようやく「きみ」は「わたし」に気付きます。
鬼籍というのは「鬼籍に入る」などという使い方をする語で、「亡くなる」とほぼ同じ意味だそうです。
鬼籍はあの世の死人目録みたいなもので、死人の戸籍のことだそうです。
閻魔帳とか思い浮かべてもらうとイメージ近いです。
では「鬼籍の島」とは?
…………………。
申し訳ないんですがここだけずっと分からないしイメージも湧かないんです……。思いついたら書き足します。許して。
でもなんとなく「死んだ島」みたいなことなんですかね?「止まった生態サイクル」みたいな……?
最初この「ユニ」は一角獣、つまりユニコーンのユニかなとも思ったんですがどうも違うみたいです。
一角獣というのは説明するまでもないかも知れませんが、一角の生えた馬のことです。場合によっては羽なんかも生えてますよね。
この一角獣は中国で言うと麒麟、日本で言うと鵺のような「キメラ」として登場してるのだと思います。
完全なオリジナルではなく、様々な動物のパーツを組み合わせて作られる架空の生物。
ぱゅは「わたし」に関して他人からのイメージは既存のものからパーツを組み合わせられて作られているという風に感じているのではないでしょうか。
そうしてつくられた「わたし」の像は虚像でしかなく全くの架空。
そこには他人の理想の「わたし」像が紛れ込みます。
だからぱゅは「わたしはきみの思うようなわたしじゃない」と言います。
「薄紫」については先程触れました。
紫というと女性を連想させる赤と男性的イメージの青の交じった色です。
これまた「一角獣」のような色ですね。
そうではなく「わたし」には「わたし」だけの色があると訴えているように感じました。
以上、長谷川白紙「ユニ」について考えてみました。
最初に書くべきだったのかも知れませんが、「ユニ」は「単一の」という意味を持ちます。
まぁそういう歌なんですよね。
私が最初これ聴いたときは「えろ…」って思ったのと同時に「仙人や仙獣が住んでいる仙界の風景」を思い浮かべました。
そしたらぱゅがラジオで「死肌」という架空動物の鳴き声をサンプリングしている、という話をしていてなんか腑に落ちた気分でした。
以上で終るんですけど、言語化能力低くてホントごめんなさい…。
私がこの曲に抱いたイメージが伝わったかは謎です。
頭いい人って短い言葉や文章でバシッと伝えることができてすごいなって思います。
それを目まぐるしく移ろう会話の中でやるんだからすごいのなんのって…。
とかく以上です。ばいちゃ!