見出し画像

古本屋

つながり⑨
夢の散歩道の片隅に、美しい文学書を扱っている「冷えたたぬき」という古本屋がありました。
表の出入り口には背筋を伸ばした信楽のたぬきがちょんと立って、何かを考えていました。
お店の佇まいと同じような、虹子が見下ろせるほどに、小さな小さなたぬきでした。

H少年と虹子は「冷えたたぬき」に頻繁に出入りしていた。
店の中にはいつだって店主だけが座っていて、いつだって下を向いて小難しそうな何かを読んでいるようだった。
店の中に入るときは、店主に気がつかれないようにそっとドアをスライドさせていたけれど、必ず少しだけカラカラと笑い声のような歪む音をさせた。
店主はというと誰かが入ってきたことなど全く関心のない様子で、その証拠に一度だってドアの音に顔を向けたことはなかった。

店主の前には亜熱帯製の小さな机があって、レジはその上に置かれていた。
さらにどういうわけか、レジの周りにもたくさんの売り本が行き場を失った生き物みたいに固まって、本当のことをいえばこれらで、店主の顔がはっきりと見えたことは一回もなかった。
古本屋はお世辞にも大きくも明るくもなく、かと言ってとりたてた特徴もなく、魅力を掻き立てる特別はあまりなかった。
店のなかの様子は外からもある程度は想像できて、選別されていない色んな本たちが棚一面に無造作に詰め込まれているばかりか、明日の朝にゴミとして出すのだみたいに束で括られた集合が、床から天井を突き破りそうなほどうず高く積まれてもいるのも容易に見てとれた。
「冷えたたぬき」に用のある人はあまりいなさそうにみえた。

H少年は本(とくに真面目な文学)が比較的に好みだったので、これらを読みながら、銭湯の番台みたいに客の来るのを待つ、そんな古本屋という仕事に憧れを持っていた。
H少年と虹子は棚いっぱいに詰め込まれた文学や小説、専門書のタイトルを次々と眺めながらどんな内容なのかの想像を膨らませていた。

この日、H少年はある目的をもって「冷えたたぬき」を訪れた。
昨日の昼下がり、i公園のふたり専用ベンチで虹子と宇宙の話しをしていると、目のそばで背広の上だけを羽織った老人と安物の青ジーパンを履いた文学青年と思われるものが言い合いになりはじめた。
ある小説についての見解をあれやこれやとあつく話しているようだった。
初老がこうだといえば青年はいやいやちがうと反論し、文学青年がこうだといえば、老人も年輪ですかさず反論をしていた。
どちらも大切な親のピンチを必死で守るような、そんな真剣で生真面目な雰囲気だった。
H少年は宇宙の話をしながらも、ダンボ耳のアンテナを斜めに立てて、本のタイトルだけを正確にインプットしていた。
さっそく今日は、その本を探しにここへ来たのだ。
H少年はいつものように目的のない来店ではなかったから少しだけ高揚していたけれど、虹子はそうでもなさそうだった。

店のなかは昨日の店のなかと全く変わらないやさしい空気と落ち着きを持ってふたりを歓迎してくれているようだった。
H少年はその中で、左上から右、右から左下へと順々に目を滑らせたり、クロールみたいにスイスイと泳がせたりした。
かなりの時間をかなりの集中をして探してみたけれど、集中が切れるまでにお目当てを見つけることは叶わなかった。
「みる」と「する」では大きく違って、いったいどうやって集めたのだろうと思うような数の本であったし、それらは整列されていないばかりか、ありとあらゆる方向を好き勝手に向いている。
下の段は虹子にも手伝ってもらって探してみたけれど、目に映る文字は次第に空中に浮遊しながらすぐに消え始めた。

こういうとき、諦めは肝心だ。
「虹子、今日は諦めるよ」
「また明日こようよ」
「明日ならすぐに見つかりそうな気がするよ」
「え?どうして?店の人に聞いてみようよ?」
「え?だってほら、本よんでるよ、ジャマしたらわるいよ」
H少年にその考えはゼロであったので、本当にびっくりして虹子を見た。
虹子はふふふと笑って、
「ここは古本屋さんだよ、聞いても大丈夫だよ」
「そうかなあ?」
「仕事中だよ」
「怒られたりしないかな?」
「しないよ」

H少年は初めて歩く哺乳類のような頼りなさで店主のいる奥の机に近づいていった。
通路の数々の頂のせいで、上手く歩けない。
もう少し片付けたらいいのになあと、感じたことのない不満が突如に湧いてきた。
H少年と虹子はなんとか店主のすぐ目の前まで来たけれど、店主は変わらずに本を読み続けているようだ。
こめかみと頭皮の一部分が少しだけ見えていてる。
微動だにしない。
寝ているわけではなさそうだ。
むしろ集中しているみたいだ。
沈黙がさらに沈黙を連れてきて、H少年は虹子に助けを求めたけれど、虹子は「しっかりして!」の塊のような目つきをH少年に投げかけた。

「あのののう、すいまません」

木目の美しい机の山山の隙間から少しだけ見えていた店主がニョキッと顔のぜんぶを出した。
初めて店主の顔を見た。
眼鏡をかけたどこにでもいそうなありふれた顔だった。
H少年は店主は文学に精通しているのだから、きっと賢そうな顔つきなのだと勝手にそう思っていた。
そして普通の顔であったことにも勝手に落胆した。
店主は読んでいた本を映画のワンシーンみたいにパターンと鳴らして、眼鏡を少しだけ下に滑らせながらH少年を見た。

「はい、お会計ですね、お待ちください」
そう言って、するするとこちら側へ器用に回ってきた。
店主は思ったより小柄で、よれよれで、少しだけ神経質そうだったけれど、ニコニコとエビス顔であった。

店主は、H少年の手に何もないことに気がつくと、
「何か探しものですか?」と先回りをして聞いてきた。
店主が意を察して、予想をしたとおりの問いをくれたので、H少年は安心して尋ねることができた。

「「河童」という本を探しているのですが見つからなくて。」
「ここにありますか?」
「もちろんありますよ」

すぐにありますよと即答した店主をH少年はまじまじと見た。
ありきたりは、H少年の中で、すぐに尊敬に変貌した。
店主はH少年の幼顔をさらさらと滑りながら見てから、「どなたが読むのですか?」と聞いてきた。
H少年は自分が読むのだと躊躇なく答えると、店主はへえーと感心と関心を混ぜたように頷いてから、「ちょっと待っててください」と歩き出した。
H少年は自分が「河童」を読むようには見られていないことに少しだけ腹が立った。
小柄な店主は隅々まで知り尽くしているらしく、ひょいひょいと頂を避けながら、何の迷いもなく店内を動いていた。

しばらくすると漁から帰ってきたよみたいに堂々と、異なる「河童」を引き連れて戻ってきた。
店主の掌には出たちの異なった五匹の「河童」たちが細く長く鋭い爪を立てて引っかかっていた。
どれもこれも一目で先ずは古そう、キュンがあって、カッコいいに変わって、みとれて、案の定つれて帰りたくなった。
一冊一冊を手に持って、本当の検索をし始めた。何かが流れついた匂いが充満していく。
単行本、文庫本、函付き、豆本、全集であった。

「どれにしますか?」
H少年は「河童」は「冷えたたぬき」に一冊だけしか存在しないのだと思っていたせいか、またしても悩み出していたけれど、答えはすでにあたまにあった。

「それは15000円しますよ」
「え?20円じゃないのですか?」
「本の裏側に20円と記されてますよ」
「これはずいぶんと前の初版本でね、定価は20円て書いてあるけれど、貴重な本なんですよ」
「こっちの文庫本なら50円でいいですよ」
「え?これは50円ですか?15000円の方もこっちも書いてある内容は同じですか?」
「もちろん同じです、むしろ初版本は旧文字だから読みにくいんですよ」

H少年は、本も人間と同じように立派で見てくれの良いほうがやっぱり価値があるのか、などとそんなふうに思った。
たしかに1万5千円の本は箱入りで存在感がある。
威厳もある。
おまけに表裏背表紙はパリパリとした高級そうな和紙で覆われていて、シリアルナンバーまで刻印されている。
だからってこうも価値が違うとも思えない。
一方の文庫本はこれでもか、というくらい陽に焼けて焦げており、記憶のような懐かしい匂いのみがした。
店主はH少年に「河童」を手渡すと少し安心したような顔つきになった。

「あの、すみません、もうひとつだけ前から気になっていたことがあって」
「何でしょうか?」
虹子がびっくりした表情をしてH少年を見上げた。

「冷えたたぬきって何ですか?」
今度は店主がH少年の顔をまじまじと見て、さきほどの虹子と同じ笑いかたをした。
「ああ、これはねえ、むかしこの店を始めるときの話しでね、ここは古本屋でしょ、だから屋号とかいらないかなと思っていたの、そのまんま古本屋って店名でいいかなと」
「だけどせっかく始めたんだから名前があった方がみんなに覚えてもらえるかなって」
「いろいろ考えてみたんだけどぴったりしたものがなかなか思いつかなくてね」
「そんなある日、お客さんのひとりが聞いてきたんだよ、このお店にヒエラルキーについて書かれた本はありますか?って」
「本当に恥ずかしいんだけど、そのころはまだまだ無知でね、ヒエラルキーの意味が分からなかったんだよ」
「だけど仕事柄、ヒエラルキーって何ですか?って聞き返すこともできないでしょう」
「だから冗談で冷えたたぬきは売り切れましたって言っちゃったんだよ」
「そしたらお客さんが大笑いしてくれてね」
「それからだよ」
「一回きいたら忘れないでしょう」
H少年と虹子もやっぱり笑ってしまった。

「ところでヒエラルキーって何ですか?」
店主はこいつっという感じでH少年を見ながら苦笑いをして、
「実はまだわかってないんだよ」と笑い直した。
「やっぱり」
「いつわかってないってわかったの?」
「「他人の顔」の奥さんくらいの早さでわかった」
H少年はそう呟きながらはにかんで、店主はもちろん、虹子も可笑しくなってしばらく笑っていた。


H少年と虹子は文庫本を大事に抱えて「冷えたたぬき」を出た。
空一面に伸びていた水色雲の切れ目から少しだけ暗雲が顔を出していた。
H少年は何も気がつかず、大きな背伸びをしてから虹子を見つめた。
「i海岸まで行こうか」
「いいよ」
「あそこに眺めのいいiベンチがあったよね」
「あったあった」

海のぜんぶが見わたせる木製ベンチまで歩いた。
ふたりで腰をかけてしばらく目を閉じた。
今度は虹子がH少年を見つめていた。
潮の香りと波音がたくさんの過去を戻らせた。

「オアシス」が枯渇したのを見とどけてから、H少年は「河童」を読み始めた。
だから今度は大丈夫そうだ。

「今、この本を読んでいてね」
「大人になってまだ小説が好きなら、そのときはこれをプレゼントするよ」
さきほどの店主の声があたまの中にくっきりと聞こえていた。
見せてくれたのはヘッセの「少年の日の思い出」だった。
「ありがとうございます!」
「たのしみにしています!」
「今日はお世話になりました」
「本が少し好きになりました」
店主にきちんとお礼をしてお別れをした。

また明日、虹子と一緒に「冷えたたぬき」に行こう。
心からそう思った。

※今日はネコの日ですね。
猫の事務所
......ある小さな官衙に関する幻想......
を読んでいます。
青空文庫で読めます。
宮沢賢治と話したい。

ねこのように柔軟にいきたい。


いいなと思ったら応援しよう!