ヒロインよりも、リアル。
「弱ってるから、助けたくなった。」
「さみしいから、なんとなく付き合った。」
カップルの始まり方として、意外とよくあると思う。
わたしも、
そんな恋のスタートに、身をゆだねてみたことがあった。
悲しみや弱さを理解しようとしてくれる、という行動は、
一見、思いやりのある姿かのようにうつる。
やさしい人、という錯覚を起こさせる。
少しくらい甘えてみてもいいかも、すきになれるかも、と思ってしまう。
でも、果たしてそれは、
未来永劫、続けていいの?正しい恋の在り方なの?
申し訳ないことに、
わたしは彼らに、心を許していなかった。
騙し騙し寄り添っていただけだった。
だって、さみしさを埋めるためだなんて、
気持ちがあるのかないのか、自分でもわからない。
恋をしていない、恋。
対して、弱さを認めてくれた彼らが望むのは、
「悲劇のヒロイン」なわたし。
いつも、うまくいかなくてかわいそうな女の子を、守っていたい。
(結果的に、そうじゃなくなる場合もあると思うけど。)
うまくいっていないわたしじゃなきゃ、
彼らはダメなんだと知ったとき、すごく落ち込んだ。
この人とは残念ながら、いっときの短い恋のために出会ったんだと。
わたしの仕事が充実し、すごくやりがいを感じていた時期に、
不服そうな顔で「そんな仕事やめなよ。」
と言われたときに、強く実感したことだった。
弱っているときに力になってくれた人だったから、
わたしの「うれしいこと」について、
当然、よろこんでくれるものだと思っていた。
けど、それは、勘違いだったみたい。
幼い頃、
男の子は、ヒーローになりたがり、
女の子は、ヒロインに憧れる。
でもさ、歳を重ねれば、いつしか気付くんだよね。
そんな思考は、現実的ではない、と。
ちゃんと自分の足で踏ん張って、
誰かに手を取られなくても、しっかり前をみて歩く。
自分ひとりで、満足の行く人生の土台を作る。
その過程で少しずつ、
わたしは、わたしらしさを手に入れることができる。
そのオリジナリティを持ってしてはじめて、
隣り合って歩いていくことのできる、
ふさわしい相手に出会うことができる。
そう信じている。
さみしさを埋めることで自分を保っているうちは、
いい恋愛はできない、と気づいたから。
中途半端に、誰かと付き合うなんてできない。
恋さえしていればいい、なんて非現実的なこと、言っていられない。
だってもう、大人だもの。
いまだって、ときたま弱ってしまうことはある。
誰かにすがりたくなるときも、ある。
それでも、わたしは、さみしさに負けない。
いつだって乗り越えてみせる。
そして、お互いのしあわせなこと、うれしいことを、
一緒によろこびあえるような、そんな相手と出会えることが、いまの理想。
わたしが健全であるときに、
わたしのことを好きだと言ってくれる男性は、きっとどこかにいる。
だからいまは、
自分のやるべきことに向かってまっすぐ、がんばるときなんだ。
そう信じて、邁進する日々です。