母の白髪を染めた日。
「なあ、はるちゃん。髪の毛、染めてくれへん?」
そう頼まれて母の髪を染めたのは、たしか、3年前の冬。
あの日のわたしは、彼女の髪をさわりながら色んなことを思い出し、そして、自分を叱ってやりたくなった。
学校のクラスメイトや、会社の同僚。もしもわたしたちが、ある程度、距離のとれる関係だったら。わたしと母は、たぶん、仲良くなっていない。きっとそうだろう、と思っていた。
母はどちらかというと保守的で、あたらしいことには手をださないタイプ。わたしはどちらかといと進歩的で、たとえ危険が伴うとしても、知りたければ自分からガンガン足を運んでいくタイプ。絵に描いたように、真逆の性格。
そんなわたしのことを、父は「なんでそんなに勇ましく育ったんや」と言った。その表情は、いつもうれしそうだった。
打って変わって母は、わたしの向こう見ずな行動に「女の子なんやから、ちょっとは考えなさいよ」とよく注意をした。
わたしが思春期をむかえて以降、母はわたしに、苛立ちを示すようになった。
兄や弟のように、「今日は何があったの?」と笑いかけてもらえない。だったら、自分から話せばいい、と「今日は、こんなことがあったよ」と伝えても、「いまは忙しいから、そんな話しないで」と、いつまで経っても聞いてもらえることはなかった。
父や兄弟には、相談なんてできなかった。
というか、話したところで、どうにもならないと思っていた。
家族全員が集まったリビングで、わたしに冷たくあたる母をみても、父はだまってテレビを観ているだけ。何も言ってくれなかった。兄弟は、気まずそうに視線を泳がせていた。
そんな毎日が何年も続くと、がんばる気力がなくなる。
「愛情が枯渇するとは、こういうことなのだろうか?」と毎日、深夜、バレないように涙を流していた。
諦めてしまったわたしは、次第に、母との関わり方がわからなくなる。父との関わり方もわからなくなる。兄弟とは両親のいない場所で話をしていたけど、それは別に、家族のこととは関係のない話。
わたしは「新見家」に、肩書きだけ所属しているような状態だった。心をあずけられる場所ではなかった。それでも、正月や盆などの行事ごとには参加して、親戚の前で仲のいいフリをする。
「血のつながりなんて、意味のわからない強制力だけがあって、めんどくさくて、くだらないものだな。」
そんなことを、10年近く、悩み続けていた。
24歳のとき、弟が交通事故にあい、死んでしまった。
わたしにとって弟は、心を許せる相手だった。彼はいつでも、わたしを肯定し、応援してくれた。「新見家」で唯一、安心できる人。そんな特別な存在が、いなくなってしまった。
弟が亡くなった年の夏、途方に暮れるなか話し合いをして、一家離散をすることになった。父はとなりの市に、母は兄のいる静岡に、わたしは東京に、引っ越すことにした。
上京する前日。母とふたりきりになった。
しばらく会わなくなるのだから、どう思われたっていいや、と、ずっと聞きたかったことを聞いてみた。
「おかあさん、わたしのこと、きらい?」
母は返事をせず、涙を流しはじめた。
わたしは、話を続けた。
「わたし、どうして弟が死んでしまったんやろうって、あの子じゃなくて、わたしが死ねばよかったのにって、なぜか自分を責めてるんやけど。だって、わたしは家族に必要ないと思って、愛されてないと思って、生きてきたから。なあ、どう思う?」
母が傷つくのはわかっていたけど、止められなかった。
傷つけてでも、腹を割って話したかったから。
これがきっと、最後のチャンスだったから。
母は泣きながら怒って「どうしてそんなこと言うの」とわたしをキッと睨んだ。そしてうつむいて、弱々しい声で答える。
「お腹痛めて産んだ自分の子を、嫌う親がどこにいるの。死んでほしいなんて思う親が、いるわけないやん。」
それから、どうしてわたしにキツくあたっていたのか、何があったのか、話してくれた。それらの理由は、彼女自身の過去が強く関係しているようだった。わたしにとってはまるで納得のいく答えではなく、「もういいよ」なんて言ってあげることは、できなかった。
上京当日。
駅のホームまで送ってくれた母に、昨日できなかった返事をした。
「許すことはできないけど、許さないこともできない。なかったことにもできない。10年は取り戻せない。でも、わたしのおかあさんは、おかあさんしかいないから、どうせなら仲良くしたいよ。これからもよろしく。」
そう伝えて、東京に向かった。母は、涙をこらえて見送ってくれた。
3年前、ふたたび同居しはじめた両親の家に帰省したとき。
母に「髪を染めてほしい」と頼まれた。
母の髪を触るのは、はじめてだった。
ギシギシで、指通りもわるく、お世辞にもきれいとは言えない髪。
髪はぜったいにキレイに保つ!というポリシーのあるわたしは、たぶん世の中の平均以上に、髪にお金をかけている。やっぱりお金をかけているぶん、ほめてもらうことも多い。
そんな触り心地のいい自分の髪とは対照的な、母の髪。
ぜんぶ白くなっている根元の毛をみて、胸をグッとつかまれるような感情に襲われた。
「新見家」は、決して裕福なわけではない。
3人の子供を育てるために、父も母も、苦労したと思う。
この髪は、わたしたちを育てるために、お金をかけることができなかった髪。自分のキレイを我慢してでも、守りたいものがあったという証拠。
カラーリング剤を塗りながら、涙がでてくる。
前をみている母に気づかれないように、ひっそりと涙をぬぐう。
わたし、いままで、彼女の何を見てきたんだろう。
根元にびっしり生えた、白い毛。何年前から、ぜんぶ白髪になってたの?
そんなことさえ、知らない。
「きっと気が合わない」そんな自分勝手な決めつけで、彼女のことをちゃんとみていなかったんじゃないか。知ろうとしていなかったんじゃないか。そういう態度が、彼女を傷つけていたんじゃないか。
いつもいつも「自分ばっかりかわいそうだ」と、心のどこかで、そんな風に思っていたんだと思う。自分のことばかり考えて、彼女のことを思い至る気持ちが、足りなかったんだと思う。いい大人になって、やっとそんなことに気づくなんて。
「さいきん肩が痛くてさ、上のほうまで手が上がらへんのよ。はるちゃんに染めてもらえて、助かったわ〜。」
すこしづつ老いていきながら、がんばってわたしを育てていてくれたのに。どうしてもっと、寄り添ってあげられなかったの。
「愛されていない」そんなこと、なかった。ほんとに、なかった。
彼女はいつだって、わたしを愛してくれていた。
わたしが意固地になってはねのけてしまった愛情が、いったいどれくらいあったのだろうか。彼女がときおり向けてくれた、やさしいまなざしを、思い出す。
叶うのならば、時間を巻き戻して、
もういちど一緒に歳をとりたいと思った。
あれから、帰省するときは何回かにいちど、ヘアケア商品を買って帰るようにしている。
「これ、おかあさんもよかったら使って。髪の毛サラサラになるよ。」
スーパーで買ったであろうシャンプーのとなりに、東京で買ってきたちょっといい値段のシャンプーを置く。
お風呂上がりの母が「なんか、髪の毛サラサラになったわ!ええかんじ!」とか「今回のは、ちょっと合わへんかも。前のやつのほうがよかったな〜」とか、うれしそうに報告してくれる。
遠慮がちではあるけど、帰るたびに中身の減っているシャンプーの容器をみると、うれしくなる。
いままでだって、これからだって。
おたがいに、許せないことも、譲れないことも、きっとある。
合わないなって感じる部分も、きっとある。
だけど、わたし。母の白髪を染めた、あの日。
これからは何があっても、この人を大事にしようって決めた。
わたしも母も、後悔はしてる。
もっと早く、わかりあえていたらよかったね、って。
でも、それと同じくらい、こうも思う。
過去を嘆くことは簡単だけど、これからどうするか?を考えられるわたしたちでいたいね、って。
こんどの帰省は、また新しいシャンプーを、買って帰ろうと思ってる。
すこしずつキレイになっていく母の髪と、うれしそうな顔がみたいから。