タフでなければ生きていけない。優しくなければ生きていく資格がない。
2024年2月16日金曜日、可愛がってくれた叔母が今世ではもう会えないところに旅立った。彼女はお洒落で、絵を描くことが大好きで、3人姉妹の頼れる長女。3人姉妹が歳を重ねてもずっと仲が良かったのは長女である叔母の責任感と優しさだったように思う。
高校を卒業するまでマレーシアで家族と共に住んでいた私にとって、夏休み一時帰国をした時、卒業して両親が帰国するまでは特に私の保護者代わりだった。インターナショナルスクールを6月に卒業し、受験を経て大学入学まで居候させてもらった。一部屋を独占するわけなので、窮屈な思いをさせたのだが叔父も従兄弟も受け入れてくれた。姉妹の中でも、家族の中でも叔母の影響力は絶大。
映画がとにかく大好き。子供の頃、おじいちゃんが叔母たち3姉妹をよく映画を見に連れて行っていたらしい。昔の映画のことをよく覚えているし、映画を見にいくのはとても好きだった。私も学生の頃彼女と一緒に映画を何度も見に行ったし、その帰りにお買い物したり美味しいもの食べたり、楽しい時間を過ごした。
何回か外出をした時に、今でも印象に残っている言葉。一緒にお化粧室に入った時に「手を洗ってペーパータオルで自分の手を拭いたら洗面台を拭き取ってキレイにしていくのよ」それは単純にキレイにするという物理的な行動ではなく、後から来る人のためへの気遣い。マンションに夜帰ってきた時にも、「夜は1階から自分の部屋に登っていく人が多いから、自分がエレベーターを降りるときに1階のボタンを押してね」そうやってさりげなく教えてくれた、ちょっとした気遣いをは自分の中では習慣化している。
気遣いといえば、私が今までにもらった誕生日プレゼントの中でダントツ1位として印象に残っているのも叔母からもらったものだった。一時帰国していた夏休み、私の誕生日に何が欲しい?と叔母から聞かれて「月刊ジャイアンツ!」と答えた私(笑)その頃野球にハマっていて、夏休み中何度も当時の後楽園にジャイアンツの試合観戦で通っていた。当時チラシを紙吹雪にしてホームランやヒットが出ると球場でばら撒いていたぐらい、熱狂的なジャイアンツファンだった。女子高生らしくお洋服とか、バッグとかを想像していたようで「そんなものが欲しいの?」と笑っていた。がしかし、約束通り1年間毎月マレーシアまで送ってくれたのだ。毎月喜びを運んでくれた。
叔母と母と3人でパリに旅行したこともある。絵を描くことが大好きな叔母にとってパリ旅行の主目的はスケッチ。次の展覧会に向けていろんな材料を集めるかのように、街をあちこち歩きながら、足を止めてスケッチをする。ささっと手早くペンを動かしあっという間にスケッチブックは素敵な下書きで埋まっていく。ちょっとでも生活しているような雰囲気を味わってほしくて、その時には普通のホテルではなくレジデンスタイプのホテルにした。朝早く起きて、パン屋さんに行き焼きたてほやほやのバゲットを一本。前の日にボンマルシェで買ってきたハムやらチーズやらフルーツやらと一緒に、今日は何をしようか、どこに行こうかと朝食の席で話が弾む。
モンマルトルにあり、ピカソ、モディリアーニ、コクトーなど名だたる芸術家に愛されたオ・ラパン・アジルに行きたい!と言うので、夜しか開いていないその店に母と叔母を連れて行くのは治安的に大丈夫かなとドキドキしながらも、その店にシャンソンを聴きに行った。
自分が何をしたいのか、やりたいことに正直で自分のライフスタイルをしっかり持った女性だった。そんな女性を叔母に持ち近くで一緒に過ごす時間があったことは、感謝しても仕切れない。良い影響をたくさん与えてくれた。
戦前に生まれて、満州から帰国し戦後の混沌とした時代を生き抜き、やりたいことをやって自分の人生を生きてきた彼女。4月の展覧会には絵を出展しようと準備していたみたいなので、ちょっとだけ心残りはあったかもしれない。
でも日本がどん底からぐんぐん成長する時代を生き切った彼女に伝えたい。
「おめでとうございます」と。