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あのマンションの部屋の電気が消えたら

久しぶりに何にもしない少し元気な日が
できてきたので少しずつ文章にしてみようと
思う。(多分YouTubeもいずれ出すと思うけど)私は数日前から休職することになった。
たしかもう1週間たったかな、たたないかな。

数日前「適応障害」だと診断された

適応障害とはある特定の状況や出来事が、その人にとってとてもつらく耐えがたく感じられ、そのために気分や行動面に症状が現れるものです。 たとえば憂うつな気分や不安感が強くなるため、涙もろくなったり、過剰に心配したり、神経が過敏になったりすること らしい。

私にとってはそれが仕事だった。(多分)

私は3年目の混合病棟の看護師だった。

1、2年目の所まぁまぁ大きな医療センターで、私のいた病棟は外科、整形外科、形成外科、皮膚科、婦人科が混ざっていた。もちろん毎日の様に手術、入院があったし、人手不足だから部屋持ちしながら入院を取るなんてことも当たり前で残業も多かった。家に帰って寝る、たまに飲みに行って愚痴を吐く。それがなんだかんだ心地よかった。人間関係も比較的よく(多分)同期も、先輩も、後輩もわりと好きだった。

2年目の夏前、人生で初めて蕁麻疹が出た。痒かったし、呼吸苦もあった。きっかけなんて明確にはなかった(と思っている)から、あ〜体がおかしいな位にしか考えてしかいなかった。同様の頃から患者さんの急変の連続、入院の要請の多さ、沢山の人の死で看護師の業務について深く考え出した。

例えば、の話になるけど、DNR(延命処置)を希望していない患者さんが痰が詰まって呼吸がしにくくなっている。それを私達看護師は、その患者さんが嫌がって泣いているのを見ながら(時には抑制をして)吸引という処置をして命を繋ぎ止める。それが助かる方法だと頭では理解できている。また、例えば足浴(足を温め循環を良くする事でプラスになることが沢山ある)。それも看護の一つだけど相手(患者様)は望んでいないのではないか、と。

急変と入院が沢山重なって、いつか誰かの命を殺してしまうのではないか、とずっとずっと怖かった。忙しさのあまり、患者さんに優しくできていなかったかもしれない自分が嫌で嫌でたまらなかった。夏頃から毎日不眠、吐き気と涙と戦っていた。
同時期、SNSでの誹謗中傷みたいなものもあり、私生活も最悪な状態だった。なんで写真を撮っているのか、誰が私という存在を見てくれているのかわからなかった。会えるのは唯一同期だけだったし、SNSをやっているような人達が全員怖かった。外に出るのも、電車に乗るのも、ライブに行くのもあんなに楽しみだったのに息ができなくなる感覚があった。休日はアニメを見て過ごした。トイレ以外ベッドから起き上がれなかった。(その辺の記憶はもう曖昧であんまりない)

同期に心療内科に行くことを勧められ、初めて行くことに決めた。正直行きたくなかった。自分を弱い人間だと認めたくなかった。薬を飲む、という行為さえもう怖かった。患者さんには早く良くなって欲しい、と言うのに気づいたら自分の体が限界だったようだ。その時行った病院で初めて休職を勧められた。でもその当時は「休む」という判断ができなかった。人が少ない故、毎日の多重業務を誰がこなすのか、勤務変更をしてもらう申し訳なさ、色んなことを考えて出来なかった。だから、3月まで働いて退職することを決めた。

親には九州で探したら、と言われてたけど勤務上、見学に行くことができなかったり、自分の中の条件を満たす病院がなくてやめた。

転職サイトを使って転職をする為に動き出したのが11月頃。その方々もいい人たちで自分の希望の病院を探してくれた。ただ、2年しか急性期を経験していないのはもったいない、今後もキャリアを積みたいなら少しでも小さい病院の二時救急はどうか、となりそのまま面接し、合格した。合格した時は嬉しかったし、環境を変えられることが何よりも自分の希望になった。

4月、新しい病院に入職した。心機一転頑張ろうと思った。私がその病院の中で一番年下だった。少し気を遣った。そしてまた混合病棟だった。今度は、外科、内科、泌尿器科(透析)、整形外科。何でも屋だった。割と古い病院で物品とかも全然違った。最初は物も、人の名前も、電子カルテの使い方も覚えるのに必死だし、中途採用の人達が多かったからそれぞれのやり方、みたいなものもあった。だけど、前の所より人は多かったし部屋持ちが入院を取るなんてことは無かったし、私は割と定時で帰っていた。

ただ、上にも書いた様に看護師の業務に関しては正直納得がいかない事(頭では理解ができている)もあって、それを抱えたまま働いていた。私はなんでこんなことをしているんだろう、患者さんは本当にこれを望んでいるのかとか、そういうの。ずっとずっと思っていた。
ある時、部屋持ちをしていた部屋で急変が起きた。ただ、その日の朝たまたまDNRを取っていた患者さんだった。その人は毎日ずっと叫んでいた。姪っ子に会いたい、とかご飯を食べたい、とか。このご時世(コロナ)だから簡単には会わせられないし、嚥下(飲み込む力)も弱くなっていたから食べ物を食べる事さえリスクが大きく絶食になっていた。
急変する前、寒い寒い、と言っていたので私は電気毛布を1枚と掛け布団を二枚掛けた。でも熱はなかった。起き上がると危ないので自分の見える範囲にベットを動かしてその部屋にいた。そのあと、多分2分くらいしてから急に静かになった。顔を覗くと眼球が上転して(白目を向いていて)、顔面蒼白(顔が青白い状態)で、呼吸がおかしかった。すぐに近くにいる先輩を呼んで、いろんな処置をした。でも、その方はそのあと1時間程度して亡くなった。沢山後悔した。もっとやれる事があったんじゃないか、私が見ていなかったら(他のベテランの人)が見ていたらもっと長く生きれていたのかもしれない、とか、命について沢山たくさん考えた。人の死は本当に呆気ない。意外と簡単に終わるし、病院での死、なんて処置も割と淡々としている。一つの生命が消えていくのに、もう会えないのに。

多分その後から私はまた崩れ始めた。なんで看護師をやっているのか分からなくなったし、毎日命と隣り合わせの病棟へ行くのが怖くなった。駅を降りて病院に行くまでの道がたまらなく怖くて涙が出そうになり、息が苦しくなった。その時も頭の中には休む選択肢はなくて毎日やることをこなして必死に働いていたと思う。このままじゃ、病院に行けなくなると思い、また心療内科を受診した。「看護師さんは多いからね〜」と言われた。心身症(ストレスの症状が体の症状として出る病気)だと診断され、薬をもらった。あんまり効かなかった。薬を変えて貰ったら眠くて眠くて申し送りがしんどくなった。その後から回転性のめまいが出てきた。それでも病院へは出勤していた。四連勤の最終日に点滴をして内服を貰って帰った。

回転性のめまいは治ったけど、浮遊性の目眩は残った。あと力が抜ける様な感覚、脱水、貧血みたいな感じ(これは前からあった)
休みが来てリフレッシュできると思った。同時期にずっと気になっていた企業の中途採用募集が出た。応募しようと思った。エッセイを書かないといけなくて、手をつけようと思っても泣いて泣いて手が震えて何故か書けなかった。
翌日からの出勤のことを考えると心も体も重かった。でも行った。

先輩達も心配してくれて、検査を勧めてくれた。もう一度内科を受診することになって、MRIでも、耳鼻科でも多分原因はわからないと思うと言われた。ストレスじゃないかと聞かれ、初めて薬を飲まないと病院に来れない、ご飯が食べれない、ということを言った。気付いたら号泣していた。師長さんを呼んできてくれて、ちゃんとした精神科の先生に診てもらった方がいいと言われ、早退して病院に行った。

診断名は言われなかったけど、抑鬱状態が酷いと言われた。休職した方がいいとまた言われた。「休む」のが私の中ではとても怖く、その選択をしたくなくて「2週間でいいです」と言ったけど、それでは変わらないと言われた。せめて3ヶ月は必要だと。

自分が休むことで周りに迷惑をかけてしまうことが何よりも申し訳なかった。その日初めて親に伝えた。泣きながら辛かったこと、休むことになったこと。怒られると思っていたから案外受け入れてくれてびっくりした。

ただ、消えたいという思いが増した。たまに思ってたことだけど、ここから飛び降りたら死ねるのかな〜とか、深夜に歩いてたら誰かに連れ去られたり刺されたりしないかなぁとか。死にたい、というよりは周りに迷惑を本当にかけてしまうのが申し訳なかったからもうこの世の存在からいなかったことにしてほしいと思った。全ての欲も消えた。何にもなくなった。

数日前、YouTubeを出して今の報告をした。正直、こんな動画を見てどう思われるのかも怖かった。でも助けて欲しかった。本当に復職、転職ができるのか。今でもそれは考えてしまっているけど。沢山のDMやコメントがきて本当に本当にびっくりした。そして泣いた。あぁ、まだ私のこと見てくれてる人っていたんだ、大事に思ってくれてる人っていたんだと、嬉しくて泣いた。

今も動けない日があったり感情にとってもムラがあって泣いたり、ご飯が食べられない日が続いているけど少しずつ良くなっている気がする。本当に皆様のおかげだと心の底から思います。ありがとうございます。

そして、今回の事で「適応障害」の認知の低さも知ることができたし、私の中での目標もできた。看護師、っていう仕事だけじゃなくてもっともっと多くのひとを助けたいっていう気持ちと、心と体の健康は本当に繋がっていて、誰しもが起こるということ。無理を絶対にして欲しくないということ。誰かに頼ってもいいということ。休むことは悪い事ではないということ。

もっともっと伝えたいことが沢山ある。
私が皆さんに支えてもらった様に、私が絶対みんなを支える存在になりたい。だから頑張る。頑張るね、私。

寝れない夜は隣のマンションの部屋が消えるまで起きているし、まだ泣いてばかりだけど少しずつ前を向くから、だから毎日を必死にじゃなくていいから少しずつ過ごそう。

本当に長文になってしまって申し訳ないです。
最後まで読んでくださった方々、ありがとうございました。






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