「バナナはおやつに入りますか」は「絶対矛盾的自己同一」である

いまだに、歩行中の道に出っ張りがあるとついつい登ってしまう。あるいは、色付きのブロックだけ選んで歩いたりする。
西田の文章と自分の心を往来しながら読むときも、気分の上ではそういう感じである。

畳みかけるような西田の言葉が隙だらけの私の心を席巻する。逆に、隙のない文章のスキマに私のしょーもない思いつきを滑り込ませてみたりすると、岩波文庫(青)が呼吸するような気がする。

西田のいう個物とは、「自ら自己を限定するとともに他によって限定されるもの」である。
自己原因的に自立しうるものは個物ではない。他に依存し、他に依存されるからこそ個物である。互いに互いを否定し合う矛盾が、個物を個物たらしめている

真の個物は限定することと限定されることとの両方から極限でなければならない。それは他からの限定の極限であって、また他を限定し返すものでなければならない。限定された極限においてかえって自ら自らを限定するのである」(『西田幾多郎講演集』, p.39)

個物と全体は相互に限定し合うという形で結びついている。
個物は自己限定の極みで一度死に、再び自己をまとめなおすことで蘇る。それによって全体が絶えず作り替えられ、個物は刻一刻と新しい生を生きる。

「個物と一般者とは相互に限定するのである。相互の間にSchwanken[揺らぎ]が存するのである」(同上 , p.40)

「個物は一般者の限定の極限であり、一般者は個物の限定として考えられる。・・・個物は死することによって生まれるのである。個物は自己を破壊することによって生まれ、生まれることによって自己を破壊する」(同上 , p.41)


これは例えば、川本真琴「10分前」の

地下鉄の階段いっことばし 五感が全部ひらかれていく
こんな身体脱ぎ捨てて あたしが新しくなる
ジェットコースターベルトしないで 死んじゃうかもしんないあの感覚で
10分後にはキスしてるかもしんない
今生まれたの

という歌詞の感じである。

遅刻ダッシュの10分間のあいだに、私は何遍も何遍もくるくる生まれ変わっている。
走り抜ける街、もつれる足、髪の毛とか気にしてられない。体ごとつんのめって、ギリギリ乗り込んだ電車のドアがしまると、世界が静けさを取り戻す。

必死の形相の私は、周囲からちょっと浮いている気がする。電車がゆっくり動き出すとともに、世界の時間がさっきまでとは違うふうに進み始める。

上がった息が落ち着いてきたのはいいが、顔を上げた次の瞬間の「私」がどういう表情や佇まいをこなすか、次にはそれが最大にして唯一の問題である。。


むずかしいこと言わずとも、西田のいう「純粋経験」や「生命の流」って、はっと息をのむ「ときめき」のそれなのである。

私は以前、西田をして「少女趣味的な起爆力」という表現をしたが、目についたものに対して間髪入れず「すてき!」と胸が高鳴るということは、(魂の態度が)女の子チックでいいなあ、と勝手に思っている。次の瞬間には別のものに心をもっていかれて、当該のそれには嘘のように関心ゼロになっている点も含めてである。

そのような瞬間の連続、常に「私」に「わたし」が補給され、また「わたし」の組織を「私」が組み替えていくため、私は絶えず柔らかい皮膚をうみ、脱皮し続け、錆びることがなく、みずみずしい。

両手を広げてうつしい方向にとびこむと、私は新しい私をまとうことができる。!


ところで、いきなりであるが「バナナはおやつに入りますか」という定番ネタがある(あまりにもところで、すぎるようだが。。)。遠足のおやつにバナナが認められるかどうかという虚をつく質問で先生を戸惑わせるというやつである。
唐突であるかのように見えて、これは、西田のいう個物と一般の相互限定による内包-外延の生成の好例であって、西田的な創造を考える上で非常に示唆的だと思う。

さしずめ、「バナナはおやつに入りますか」は「絶対矛盾的自己同一」である
ここでいう個物は「バナナ」で一般は「おやつ」である。要するに、「バナナ」は、均質に無毒化された「おやつ」「絶対<おやつじゃない>的<おやつ>」へと底から切り返して毛羽立たせる起爆剤なのだ。

「バナナ」は、小学生が遠足に持っていく上で想定される無難な「おやつ」、つまりポッキーとかグミとかに対する外部を意味している。実際にバナナがおやつに該当するかの判断はさておき、「バナナはおやつに入りますか」という問いが明言されることで、マンネリ化したカテゴリーを刷新する(西田の用語では、制作ないしポイエシスする)ことに、意義があるとおもう。
なお、このような外部の動きについて、「地面の板が抜かれる」(「地球を踏み外す」)イメージがある。安定的な足場がズルっと外される時の「!?」感がカギのような気がするためである。

またこれは、「おやつ」という内包が例外的な外延であるところの「バナナ」によって概念的に変容させられるだけではなく、「バナナはおやつに入りますか」という問いに巻き込まれる本人や先生や、周囲の生徒の内包も内側からずらされるところまでポイエシス効果が及んでいるという点が重要である。

「バナナっておやつなのか」「いや、栄養価的には主食か」「果物をおやつにするという手があったか」「おやつ交換の時、相当不憫だろうな」「でも、あいつならやりかねないな…」などといったどよめきを生んでゆくことまで含めて創造である。ここで例えば、「バナナはおやつか」に触発されたクラスメイトが、うちはお中元で立派なデラウエアをたんまりもらったから、それをおやつに持っていってバスの中でみんなで分けようなどと提案した場合、「おやつ」の絶対矛盾的自己同一的制作運動はさらに拍車がかかって、以下のように表すことができるだろう。

「おやつ」-!? バナナ  !?-「絶対<おやつじゃない>的<おやつ>」-「おやつ’」-!? デラウエア  !?-「絶対<おやつじゃない>的<おやつ>」-「おやつ’’」・・・

ここで「’」付きの「おやつ」は「バナナ」や「デラウエア」という異質性に直面して新しく組み直された「おやつ概念」である。一旦地面の板を抜かれることで、「おやつ」は「絶対<おやつじゃない>的<おやつ>」に格下げ(格上げ?)されるのであるが、それも次第に新たな「おやつ」として統合的に内包化される。そうした矛盾が内側に食い込み、切り返して、乗り越えては、またも矛盾に揺らがされ、という動きを繰り返すことに、西田的な意味でのポイエシスを想う。

西田はいう
「生命はいつも動揺的である、動揺的なる限り生命というものがあるのである」(「絶対矛盾的自己同一」『西田幾多郎哲学論集Ⅲ』p.50より)



また、西田のことをあれこれと考えていると、郡司先生の「オープンリミット(開かれた極限)」というアイデアが同時に想起される。

「オープンリミット」とは、世界を限定(限界)づけるとともに開く焦点である。たとえば、絵画表現における遠近法で使われる「消失点」は画面に点「・」を穿つことで平面上に遠近の差異をもたらし、そこに立体的な空間を開放する(オープン)。ところが、「消失点」が置かれることによって、図に視点が制限される以前の純粋な見え、風景全体の地の自由度は失われてしまう(リミット)。
極限は、世界を否定する点であると同時に、世界を根拠づける全体性」(郡司ペギオ幸夫『生きていることの科学』生命・意識のマテリアル, p.84)なのであり、両義的なものなのだ。

オープンリミットは、「具体的な有限の事例と、理想化された理念的総体としての極限との、区別を作り出す。ところがひとたび、この区別を実行すると、極限なる記号に潜在していた別の有限が湧き出してくる」(同上, p.94)

オープンリミットとは「内側に書き込める太い線」のようなものだという。通常、何かを区別する「線」の質量空間性は無視されて、無かったことにされる。しかし、ひとたび区別する線の内側に無限の線が書き込めるということがわかると、「線」という内包の性質ごと作り変えられてしまう

こうしたオープンリミットは、日常世界に数多ある。郡司いわく、「SMAPにおける草彅剛の立ち位置」はオープンリミットである。
そもそも、アイドルなるものが成立する条件とは何かというと、非アイドルとの差別化である (郡司によれば、「僕たちのような、しょぼい奴らとの差別化」(p.121))。
入れ替わりの激しい芸能界で、長くアイドルの人気を維持するためにはどうしたらよいか。
ひとつに、多様な種別の属性を兼ねそろえることで、集団が特権化する可能性を増やすという方法が考えられる。つまり、アイドルグループの中にさまざまな属性を押し出したキャラクターを用意しておくことで、顧客のニーズに対応するのである。
しかし、この多様性は可能性の領域に終始するものであり、次々に消費され、いつかは飽きられてしまうことが目に見えている(以前の記事にあげた、「どこにもいない女の子」も、これである)。

ところが草彅剛はというと、これとは違う役割を付与されているのだという。このあたりは文章が面白いのでそのまま引用する。

「彼(草彅)は、ヴァラエティーの豊かさを期待された者ではないんじゃないか。彼は、いわゆるかっこいい奴と、アイドルを享受するかっこ悪い僕たちーー大衆の間にある区別それ自体、線だったんじゃないか。でもそれはまさに意味の描き込める線、太さのある線なんだ」(同上, p.122)

アイドルとしての可能な選択肢の一つではない存在として、確かに草彅くんは独自の路線を開拓して、演技派俳優として大成しているし、おちゃらけたキャラクターで一本満足とか言っている。そういうのが様々な軸を発生させる(線の中に線を書き込んでゆく)ということであり、外延(草彅)が内包(アイドル)を変えてゆくという事態の具現化であるといえよう(図)。

図 郡司ペギオ幸夫『生きていることの科学』生命・意識のマテリアル,p.121より引用

要するに、アイドル界のバナナなのだ、草彅剛は。あるいは、「アイドル」において絶対矛盾的自己同一を発動させる仕掛け人であり立役者とも言えるかもしれない。

また、よく考えると、オープンリミットは特別に逸脱的な要素である必要は全くなく、正直置かれるコンテクストによってなんでもオープンリミットになりうるのではないかと思えてくる。

例として、前後の文脈によって意味が変化する「○」を考えてみよう。

「○」それ自体では意味が定まらないところが、
△ ○ □ であれば、○は「図形の丸」である。
A ○ F であれば、○は「アルファベットのオー」である。
× ○ ◎ であれば、○は「評価の可」となる。

ここでの「○」には端的な「私」を代入してもよい。
つまり、その時置かれた状況、求められる役割、適切な行動、相応な肩書きによって、私という個物はその都度、内包世界に規定される
例えば、学校にいる「私」は「学生」であり、バイト先では「店員」となり、コンビニに行けば「客」である。

「真の個物は限定することと限定されることとの両方から極限でなければならない」というように、そこで自分が自分でいるためには、「私」は規定されつつ、それでいて全体を規定し返す反発力を示すことが大切である。要は「私」がほどほどに異質な外延、つまり適度な「バナナ」となること、極限でありつつも開かれてあることが重要なのだと思う。「ほどほど」が肝心で、内包を根こそぎ解体してしまうのは、また違うのである。

自らオープンリミットをやりに行くことは、もちろん私自身の生きやすさのためでもあるし、内包である特定の所属コミュニティの鮮度のためでもある。冒頭の川本真琴の歌詞を引用したあたりで用いた表現を踏まえれば、絶えず柔らかい皮膚をうみ、脱皮し続け、みずみずしくあるためには「オープンリミット」の「オープン性」は重要なものとなる。逆に、完全無欠で矛盾しない自己はいずれ「錆びる」のである。

「ほどほどに異質な外延」というものの、具体的に何か。わかりやすい例では、小学生くらいの子どもが思う「見たことがないタイプの大人」のような振る舞いがちょうど良い塩梅だと思う。
「親戚の中で変わり者扱いされがちな叔父叔母のポジション」は、子どもが接したことがある限りでの数少ない「大人」の内包における外れ値的存在であろう。両親ではあり得ないし、先生とも全く違う。全然説教っぽくないし、でも聞いたことには誤魔化さずに答えてくれる。そういう余裕があって、飄々としているところがカッコイイ。なんてったって、この前、学区で禁止されている原チャリの二人乗りをさせてくれたし。。親戚の間ではあまり良い顔をされないが、そういう大人は子どもにとって、いたく魅力的に映るものである。また、「世界にはこんな大人がいるのか(案外、捨てたもんじゃないな)」とハッとさせることは、ささやかながら世界の創造であろう。


何が言いたいかというと、西田幾多郎は日常に広げておもしろく、絶対矛盾的自己同一は生身の人間に生きられてこそ生きる言葉であるということだ。これを書き始めた時点での私は、そういうことが言いたかった気がする、確か。。
あやふやとしているが、でも、そういう感じでいいのだと思う。


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