デ・キリコ展の感想のようなものと思いきやほぼ片手袋の話
上野の都美術館で開催中の「デ・キリコ展」を見に行った。
キリコ、というか「解剖台の上のミシン・・・」を掲げるシュルレアリスムの表現に通じて言えることなのだが、脈略のない(あるいは、相反するような)モチーフを同一平面上に配置することで狙っている効果はやはり、郡司ペギオ幸夫先生のいう「やってくる」的なものだなあと改めて思うのであった。
いちいち説明するのも無粋かもしれないが、〈谷間の家具〉という作品を見た時に、直感したので例に挙げる。
この作品は、本来であれば室内に置かれるはずの家具が外にあるという所がミソである。
ここには、家具というモチーフに通常付随する屋内という文脈と、それらが屋外に置かれているという事実が矛盾関係をなしている。
つまり、「屋内であり(家具の存在)、屋外でもある(荒野の背景)」という肯定的矛盾(両方を採択する)と、「屋内ではなく(荒野の背景)、屋外でもない(家具の存在)」という否定的矛盾(いずれも棄却する)が両立しているのである。
この緊張関係が「家具」や「屋外」、「屋内」といった個々の概念の通常の意味を脱色し、そこに生まれたズレに「違和感」や「不気味さ」、さらには独特の味わいや懐かしさ(デジャヴ感)が呼び込まれる。
作品解説を読むと、「地震の際に家具が路上に運び出されていた光景を目にした時の記憶から・・・」という説明があったため、やはりキリコも何かしら「本来そうあるべきものが、そうなっていない」というただならぬ違和感にインスピレーションを得ていたのだと思う。
ちなみに、〈通りの神秘と憂鬱〉などに強く感じられる、キリコの作品の「(ざらっとした不気味さ混じりの)懐かしさ」は岐阜の「養老ランド」に似ている。いまこの瞬間にすべての生命が宇宙上から消えてなくなっても変わらずメリーゴーランドが回り続けるのであろうという確信と、キリコの絵の、光源がどこから来ているのかわからない長く伸びた影はよく似ている。養老ランドは天国の住人向けに作られた施設だとしても、天国ですらオワコンみたいな感じがする(いい意味で)。
ところで、平面作品は「やってくる」を作り出しやすい表現形式である。なぜなら、鑑賞者の視野を強制的に固定して、その中に作家の意図でいくらでも異質なものを共存させることができるから。
それに比べて立体作品は「そのものそれ自体」に過剰に錯綜した情報を含み込む必要があるため、延長が限られている物質に意味的な奥行きをねじ込むような工夫が平面以上に必要だろう。単に通常の意味や役割を逆転させたものを同じ空間に共存させれば良いというものではない。
しかし、日常世界の思いがけない「やってくる」は後者にあたる事態を自ずとやってのける。表層的なマテリアルの内側に、計り知れない背景がめり込んでいるようなあらわれをするのだ。むしろ、それらが忽然と現成するとき、内に畳み込まれた矛盾の濃厚さが一挙に解放されて、ものすごい違和感やデジャブをもたらすのである。
ここでは、「路上に落ちている片手袋」を例として上記を考えてみたい。
「路上に落ちている片手袋」というのは、文字通りのそれで、ガードレールの出っ張りに引っ掛けてあったり、所在なく路肩に置き去りにされていたり、バス停標識のコンクリートの台座部分に乗っけてあったりするアレである。
片手袋は、無数の矛盾が複雑に凝縮された磁界発生装置のようなものだ。私は、「片手袋」フォルダを作って、街中で見つけると写真に収めるようにしている。
片手袋に内包される矛盾とは何なのか。
はじめにそもそも、本来手袋は道路に落ちているべきではない。しかし、実際に道路に放置されている。現にそうなってしまっているのを認めてしまった以上、それは変えようのない事実である。すると私は本来の在り方(ちゃんと手にはめられているとか、日常に馴染んでいる在り方)を引きずりつつ、路上に落ちている片手袋をじっと見る。じっと見る。するとそのとき、片手袋は、「落ちていないかつ、落ちている」の矛盾した様相を帯びるのである。
また、手袋というのは本来2つで1つのペアになっている。それなのに、目の前にある手袋は片方しかない。そこに、「両方でありかつ、片方である」の矛盾が生じる。
さらに、手袋が人間の手の形をしていることも違和感を強める要因になる。あたかも、爬虫類の抜け殻(そこにいるはずなのに、いない)を目にした時のように、「手(あるはずの中身)があって、手がない」。
さらに、片手袋が醸し出すある種の哀愁は、「過去」と「未来」を「いまここ」に同時に引き受けているという説明も考えられる。特に、子ども用でキャラクターが付いているやつだとその印象が増大する。
出掛けにお母さんのお節介でいやいや手袋を身につけた「過去」と、塾帰りのどこかで無くしたことに帰宅後夜10時くらいになって気づき、今日タグを切ったばかりなのに一体どういうつもりだと怒られてベソをかく「未来」が(いずれも仮想ながら)路上に落ちた片手袋一つに凝縮されている。それはもはや単なる手袋ではなく、「痕跡」と呼ぶにふさわしい。
しかも、それを全くの他人である私がたまたま目にして、わざわざ立ち止まり、はたと慄いている。これは、レヴィナスのいう「かつて一度も現在になったことのない過去」どころではなく「この先決して現在になり得ない未来」すら内包する超アナクロニスムではないか。それに加えて手袋に「3-2 山本タケル」等の記名がされていると「誰かの所有物であり(記名がある)、誰の所有物でもない(路上に落ちている)」という矛盾も織り込まれてしまって、キリがないのである。
またおそらく、「見ている私」と「路上に落ちている片手袋」の根本的な無関係さと事実上の無関係でなさ(それと認めてしまっているということ)を紐付けるメタな矛盾も働いている。これは片手袋それ自体の性質や状況に由来する矛盾とは質を異にしている。要するに「当事者であり(片手袋に関与せざるを得ない)、当事者でない(根本的に無関係)」ことが体験を席巻し、見るものを圧倒する大きな要因になっているのだ。
例えがあまり良くないかもしれないが、交差点の脇にそっと供えられている「空き缶に一輪挿しにされた花」を「見た瞬間の私」というのは、まさにこれだと思う。加えてそれが私にとって「見知った交差点」か「初めて通る交差点」かで、矛盾のよじれ方は変わる。当然、「見知った交差点」の方が「知っているのに知らない」、「当事者であり、当事者でない」という矛盾の裂開を深める。
キリコ展で思いがけず「やってくる」を再確認させられた私は、このマインドを日頃から忘れないようにしようということで〈谷間の家具〉のポストカードを買った。これは絵というか、ほとんど紙に書いた標語のような位置づけである。
(あと、キリコの絵の中によく登場するちくわぶは、ちくわぶではなくてローマ建築の柱の一部なのですね)
ちなみに、私は去年郡司先生の授業に潜っていたのだが、授業の最終回、誰よりも早く教室を出ようとする郡司先生に声をかけて「道に落ちている片手袋って、デジャブっぽいですよね」と話しかけたら「ふっ・・・そうですね」と言われたのが最後の会話になってしまった。