想像力と子育ての枠のそと
夕方、ご飯の片付けも終わり、のんびりとする時間。もくもくと静かに隣のリビングで何やら手を動かしていた娘が、「みてみて〜」と寄ってきた。
腕に、キラキラ光る可愛らしいブレスレットがついている。もちろん本物ではない。本体は折り紙、装飾はマスキングテープ。
それでも、6歳の娘の手にあるピンクのブレスレットは、本物の宝石よりうつくしいんじゃないか。一瞬だけ、馬鹿みたいなことを思ってしまった。
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親が黙っているほうが、子どもの想像力は育つ。そんな風に感じるときがある。
例えば、折り紙。冒頭のブレスレットを折るとき、娘は折り紙の本をみながら取りかかった。ともすれば紙をぐしゃっとしたまま折り進める娘を、隣でただ見守る。こちらが手を出そうものなら、一瞬で彼女のやる気は消滅。「お母さん、やって」になる。
私自身、横から口を出されるとやる気をなくす子どもだったから、消滅する感情には覚えがある。教え教わる親子関係は難しい。
折り紙が破れたら、夕方の静かな時間はぶち壊しになるかもしれないが、誰も命までは落とさない。手は出さずに、最低限の手順通りに導く役に集中する。
ようやく出来上がった折り紙を満足そうに眺めると、娘は隣のリビングに消えた。15分後に完成したのが、宝石のマスキングテープで装飾されたブレスレットだ。
娘が居た一角に目をやると、彼女の文房具をしまっている棚からシールやペンが散乱している。「片付いた」が宇宙に吸い込まれた部屋に、ため息がでそう。
そして私は、親の手の外側で彼女の想像力がのびのびと芽吹いている事実に、なんだか安堵した。
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「子どもにとって最もよい先生は親」―娘が0歳から1歳のときに通った、ニュージーランドのプレイセンター(Play Centre)で耳にした言葉だ。非常にポジティブな意味合いで、この「親」は母や父だけにとどまらない。
「子どもが自ら遊びを選び」「親にとっての学習機関」でもあるプレイセンターは、ニュージーランドの公的な早期幼児教育機関である。0歳から6歳まで。先生はいない。運営は親。子どもが親と、遊びを通じて育つ場だ。
毎セッション、親は子に合った遊びの場を用意する。樹の下にマットレス、砂場にバケツとホース、手に塗る絵具と白い紙、たくさんの楽器、泥の粘土。親は傍らで、遊び方を見せる機会のほうが多い。子は見て、まねる。そして遊びを自分のものにしていく。
想像力、創造力、クリエイティビティ。それだけ聞くと、まっさらなキャンバスから春の命が芽吹くように草花が顔を出すように思えてしまうけれど。手から生まれるその前に、目が吸収した膨大な情景がある。子どもの傍らにいると、彼ら彼女らがキャッチする情報の細かさに驚かされる。よく見ている。
花の色、鳥の声。焼けたちょっと変な形のパン。足の裏についたシール。お友達の耳のピアスの色。3日前に空に浮かんだ白い月の形。おしえる大人の手の形。
無地の紙にきらめくダイヤをつけたほうが美しいと、娘はどこで目にしたのかな。
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仕事だ家事だって、娘を放置しがちな時間とか。折り紙するのも大変だな…と後回しにしちゃう瞬間とか。「ねえねえ、お母さん」と言われながらも、娘と一緒に遊ばないを選択したときを思い出すと、申し訳ない気持ちになる。
でも彼女の世界は、家庭の外側にもっともっと広がっていて。想像力を伸ばしている、その片鱗を見ると安心する。友だちや先生と、笑っている娘の顔が見える。
ようやく長くて短いニュージーランドの夏休みが終わる。来週から、彼女にとって間違いなく、楽しさしかない学校がはじまる。
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