枯れない花を抱いて歩く

 緑の細い茎を水中に浸し、ハサミを持つ手に力を入れる。わずかな抵抗は一瞬で崩れ先端からニセンチほどが皿の底に落ちた。声を出さずに三秒数える間、斜めの切り口が水を吸い上げる様を想像する。
 茎から花びらのように見える青色のガクへ。手まりのようなアジサイの、花だと思っていた部分は装飾花と呼ぶのだといつもの花屋さんが教えてくれた。本物よりもお飾りのほうが華やかだなんて。やがて水は、ガクの中心に慎ましやかに置かれた小さな花に届く。 
 しばらくすれば、空梅雨で乾いた天気に弱ってしまったアジサイも息を吹き返すだろう。
 わたしの細胞も、こんなふうにマキタさんの部屋で水を得て元気になっているのかもしれない。
「抹茶とキャラメル、どちらにします?」
 手を拭いてキッチンから出てきたわたしにむかって、マキタさんはお取り寄せのプリン瓶をそっと掲げてみせる。
「え、どうしよう。どっちも好きかも」
 指先で悩んで、やっぱりキャラメルにしますと受け取ると、黒縁メガネの奥の目じりに小さな皺が浮かんだ。午前中の陽に照らされて、セットされた髪に混ざったグレーの線ががきらきらする。どちらも、一緒に働いていた頃はなかった印だ。
 先週はいちごのショートケーキ、その前はあんみつだった。
「いただきます」
 背の高いマキタさんがダイニングテーブルの向かいに座り、ちょこんと身を小さくして手を合わせる。この人は、十時のティータイムでも食事の挨拶を欠かさない。
 大きな窓からリビングに差し込む光に、夏の色が見える。今年は観測史上一、二位を争う早さの梅雨明けになると朝のニュースで耳にした。この部屋に来るようになってから、桜の舞い散る春も、雨が緑をぬらす梅雨も、アルバムに写真を貼るように穏やかに通り過ぎていく。
 水曜日になると、わたしはユイを幼稚園に送り届け駅へと向かう。大きな川にかかる赤い陸橋を電車にゆられて渡り、隣の駅で降りる。本屋と喫茶店に挟まれた花屋で、その日いちばんきれいな花を買う。川沿いの道から見る空も水も光っていて、歩みがだんだんと軽くなる。前に地図で検索したら、夫と娘と暮らすマンションは中学生がランニングにいそしむ野球場のちょうど向かいにあった。実際は、あまりにも川幅は広く対岸の背の高いビルですらミニチュアサイズだ。クリーム色の外壁のマンションの六〇一号室。この部屋に入れば、神さまの目だって届かない。
「ひと口食べます?」
 マキタさんが、抹茶プリンをすくったスプーンをわたしの前に差し出す。ちょっと迷って、二人掛けのダイニングテーブルからほんの少し身を乗り出してみた。思ったより苦い。苦くて、甘い。サヨさんの好みは、もう少し甘めなんですねとマキタさんが笑う。
 その低い声が耳をくすぐり、わたしの身体をとくとくとめぐっていく。


「なんでこんなに花瓶が?」
 はじめてこの部屋にきた日、わたしはガーベラの花束を手に尋ねた。可憐な一輪挿し、飴玉のような丸いガラス瓶、蝶が描かれた華美な壺。リビングの棚には、ありとあらゆる花瓶が眠っている。
「奥さんが置いていったので、捨てられないんですよ」
 マキタさんが手前の花瓶を手に取ると、ふわっと香水のような匂いが漂ってきた。お気に入りのおもちゃを撫でる子どものような横顔に、知らないマキタさんを見つけた気がした。
 マキタさんと出会ったときも、花の香りがしていた。
 引越しの段ボールをやっと片付け、ユイの幼稚園もはじまり、ようやく空いた時間で子ども用の水筒を探しに出た駅ビルのなかで、『パート募集中』の張り紙に足を止めた。
 平日の昼間なら働けるかも、という淡い期待は続く『土日祝日勤務』にかき消される。週末はユイがいる。なにより、ダイゴが嫌がるだろう。
 落胆を飲み込んだとき背後からサヨさんと、名前を呼ばれた。振り返ると背の高い男の人が立っていた。一緒の職場で働いていたマキタさんだった。
 わたしたちがいたのは小さいけれど、業界ではちょっと名の知れた会社だった。マキタさんは開発エンジニア、わたしはデザイナー。社内にはカメラマンやライターなんかもいて、海外から品の良いアクセサリーを調達したり鮮やかな布を使い特注のスカートを作ったりしては自社で制作したサイトで販売していた。凝ったサイトの作りや扱っている製品の品質が評判を呼び、会社はどんどん大きくなった。
 わたしが激務に体調を崩し退職したのが二十五歳のとき。そのまま当時の彼氏と結婚し翌年にユイを生んだから、顔を見るのは五年ぶりだ。なんだかやつれてる、と思った。とはいえこちらも出産を経て育児の真っ最中で、よれよれのカットソーを着ているのだから、歳をとったのはお互い様だ。
 近くに住んでいるのでよければお茶でも、という急な誘いに乗ってしまったのは、単純に人恋しさからだったと今では思う。思わずその場で手土産に花を買ってしまうほど、ユイちゃんママ、とわたしを呼ばない人との会話がうれしかった。
 案内されたマンションの部屋は、リビングの大きな窓から川をわたる青い空が見えた。こじんまりした正方形のダイニングテーブル、つるりとした木の肘掛けがついた緑のソファー。濃いめの茶色で統一された家具は、どれもある程度の年月、大切に使われた跡があった。テーブルの上をやさしい風が通り過ぎる一方で、キッチンのシンクには水垢がついていた。
 マキタさんは勤めていた会社をだいぶ前に辞め、今は独立して家で仕事をしているといった。奥さんと別れたのは、つい最近らしい。「出て行ってしまったんですよね」とだけ言って、マキタさんは窓の遠くのほうを見た。
 どこからか、ボールがバットに当たる金属音が聞こえる。カーテンがゆれて、フローリングに影が落ちた。
 遠くでカーンと響いた音は、少年のかすかな歓声とともに空に消えていく。床の暗がりに座り、取り残されたように陽の当たる場所を眺めていた自分を思い出す。あの頃のわたしの手には、いまよりもずっと小さなユイがいた。
 目の前のこの人は、世界が正常に動く音を聞きながら、どんな気持ちでこの部屋にいるのだろう。
 また遊びに来てもいいですか? ともらしたわたしを、マキタさんは大きく目を見開いて、じっと見た。口の端に、ちいさな皺が浮かぶのが見えた。
 帰り際、茶色の封筒を渡された。お花代だという。受け取れないと差し戻したら、これで次に来るときまた花を買ってきてくださいとお願いされた。サヨさんの色選びのセンスが好きなんです、と。
 勢い重視の体育会系の職場で、飲み会に参加しないマキタさんはノリが悪いと一部の上司から陰で言われていた。でもその何倍も、人の努力をさりげなく覚えてくれるマキタさんが、チームメイトや後輩から慕われていたのを知っている。封筒のなかには、わたしが花屋で三時間働くよりも多いであろう金額が入っていた。
 七月になった食卓のカレンダーを眺める。もうすぐ、夏休みがはじまってしまう。
 ガチャっとドアが開いて、Tシャツとハーフパンツに着替えたダイゴが入ってきた。
「なんだ、ユイはテレビばっかだな」
 帰宅直後のダイゴは、仕事の疲れからユイとは遊びたがらない。わたしは夕食の準備に手を取られている。この時間は、テレビが子守をしてくれるのが一番平和なのだ。
 イスに座った夫に、缶ビールとグラスを運ぶ。
「あー、疲れたわ。今日はひとり早退しちゃって」
 帰宅してから夕食の片づけが終わるまで、ダイゴの口から出る言葉の大半は仕事の愚痴だ。
「子どもがってのはわかるけどさあ。おかげで俺は昼もろくに食えなかったよ」
 お昼ゆっくり食べれないって大変だねと、合いの手を挟みながら気になっている話題を切り出してみた。
「ね、ダイゴは夏休み、どんな感じかなぁ」
「んーわからん。通常お盆だけど、休めるかどうか」
「そっか。そしたらユイと何するか考えなきゃ。再来週で幼稚園終わりなんだよね」
 テレビを見ていたユイが、お休みの日はばあばのおうちに行くのー? と、振り返って無邪気に笑う。
「預かり保育とかどうかなあ。ユイの幼稚園、普通にやってるんだよね。週一でもお友達と遊べるといいかなって」
 義実家とは徒歩圏内の距離だ。引っ越してきて、月に数回の行き来が当たり前になりつつある。だからこそ、別の避難場所もほしい。
「預かり保育、ねえ」
「ほら、せっかく幼稚園にも慣れてきたじゃない? 春は毎日のように泣いてたのに、最近じゃ門をくぐるとまっすぐ先生のとこに行くんだよ。わたしもそのうち時短とかで働くかもしれないし、預かり保育、試しておくといいと思うんだよね」
 ダイゴがビールをごくりと飲み、タンとコップをテーブルに置いた。
「いくら?」
「え、」
「保育料、いくらよ?」
「あ、二時間で五百円だったかな」
「そしたら六時間で三千円。そこまでしてすることかね。おふくろだって近くにいるし」 
 テレビに飽きたユイが、ママこれみてと、ぬいぐるみを持ってキッチンにくる。
「せっかくの夏休みなんだから、母親と一緒のほうがいいんじゃない? ユイだって家でのんびりしたいだろ」
 ダイゴの言うことは、間違ってはいない。でも、胸の中でぱきりと、枝が折れる音がする。
「それに時短っていったってすぐにはナイでしょ。サヨはブランクありすぎじゃん」
 スマホをいじくりながら吐き出された言葉が、食卓に消えていく。
 キッチンカウンターの隅に空っぽの花瓶が置かれている。あの花瓶は、花がある生活っていいよなとダイゴが買ったのだ。
 ひと口いる? と缶ビールを掲げるダイゴに無言で首を振りながら、マキタさんの部屋に飾ったアジサイの瑞々しさを思い出していた。


 次の週、早くも夏の暑さを増してきた日差しに耐えてマキタさんの部屋にたどり着くと、キッチンカウンターの上で青色のアジサイがまだ綺麗な姿のまま出迎えてくれた。しおれない花を横目に買ったばかりのヤマユリをシンクに溜めた水に浸す。
 水上げが悪いみたいだったからちょっといじったんですと、マキタさんはアジサイを一本引き抜いて見せてくれた。茎はわたしが水切りした時よりも深く斜めに切断され、なかの白く柔らかい部分が取り除かれて数センチほどが空洞になっていた。
「花をきれいに保つのは、手間かかりますよね」
 マキタさんが隣に立って、蛇口から流れる水でアジサイの茎を洗う。毎日小まめにぬめりをとると、ずっと花が長持ちするらしい。
 マキタさんの奥さんは、フローリストだった。
 うなじのきれいな人。それが、結婚式で見たマキタさんの奥さんの印象だ。ガーデンウェディングの会場には色とりどりの生花がアクセントに散りばめられ、まるでおとぎの国のようだった。
 仕事で培ったスキルを、皆に祝福される晴れ舞台でお披露目する。強い人だなと思った。それと同時に、残業続きで不眠に陥り退職を迷う自分が、ひどくみじめに思えた。
 それでも妊娠がわかってダイゴと結婚を決めたとき、ウェディングフォトにガーデンスタイルの演出を指定した。あの憧れの光を真似れば、幸せになれる気がしたから。
 マキタさんのとこ、奥さんは子ども欲しがってるけどなかなかできないらしいよと、耳打ちするように教えてくれたのは同期の誰だっけ。大事な仕事道具を置いて、出て行ってしまったマキタさんの奥さん。その奥さんが残した花瓶に飾った花を、目を細めて眺めるマキタさん。
 他人の幸せは、すごくよく見える。幸せかどうか、本当はわからないことまで、幸せの印のように見えてしまう。
「家だと、あまり飾る気にならなくて。子どもの手が届くとこに置くのもアレなので」
「お子さんは、幼稚園でしたっけ」
「この春から。四歳で、よくしゃべるんです」
「それは、かわいいでしょうね」
 そう、子どもは確かにかわいい。できるなら、もう一人欲しいと思う。
 付き合っている頃から、ダイゴの口癖は「子どもは二人欲しいな」だった。三十五歳までにマンションを買って、妻は無理してパートに出る必要はなく、家をきれいに片付け夕飯を作って待っている。理想通りに叶っていく彼の夢の隣に、わたしがいる。
 ダイゴがとったわずか五日の育休とか、義実家が購入したマンションとか、やさしい旦那さんがいて恵まれて幸せねと他人からかけられる言葉はひどく甘い。胸やけしても、ごくごくと飲み干したくてたまらなくなる。
 マキタさんが蛇口を締める。ざらっと、腕の肌と肌が一瞬こすれた。
 細長いシャープな花瓶に挿したヤマユリのまだ開き切っていない蕾から、香りがこぼれて胸に入り込む気配がする。
 細長いキッチンの後ろを通り過ぎたマキタさんが、花瓶が収納された棚から白い袋を出してきた。
「サヨさん、これ読んだりしませんか」
 持ち手が付いた大きな紙袋の中には、本と雑誌が数冊入っている。仕事の関連の書物を整理して減らそうとしているのだという。背表紙に並ぶデザイン用語に、胸の奥の乾いたところがピリッと引きつれた。
 ユイが生まれてから、デザインどころかまともにパソコンにも触れていない。ぐんぐんと変わる時代に、いまさら自分が追いつけるとも思えない。
「興味はあるんですけど、わたしにはもったいないですね・・・」
 目をそらして、シンクに散らばった茎をまとめる。ゴミ箱に捨てようとしたわたしの背中に、マキタさんの声が届いた。
「興味があるなら、無理に手放さなくても」
 手が止まる。パラパラと刻まれた茎が落ちていく。
「僕ね、いまの職についたの三十過ぎてからなんですよ」
「え、じゃあそれまでは何を」
「旅行代理店勤務です。いわゆる添乗員とか旅行プラン立てたりとか。妻と知り合ったのもその頃で。自分の世界を形にできる仕事に、強烈に憧れたんですよね。そこから勉強して転職して、なんだかんだで十年以上」
 振り返ると、マキタさんが床に置いているトートバックの横にそっと紙袋を並べていた。
「お子さんがいて家庭があって、そのうえで仕事もっていうサヨさんに、若い気力だけで突っ走っていた頃の自分を重ねるのも失礼な話ですが」
 遠慮がちに頭をかくマキタさんに、そんなことないですと首を横に振る。
「つい、書籍代が経費で認められるように交渉していたサヨさんを思い出してしまって」 そうだった。新入社員の安月給では、専門書を何冊も買うのは財布に痛すぎた。このプロジェクトにはこっちの最新技術が必要なんですと理由を練っては部長をつかまえてプレゼンしていた。
 重そうな紙袋に目をやる。広がる景色の見えない先でも、願いさえすればたどり着けると疑わなかった頃の自分が胸のなかで騒がしい。
 ありがとうございますと小さく頭を下げて、コーヒーの香りが漂うダイニングテーブルの椅子を引く。今日のおやつは、真っ白なレアチーズケーキだ。
「もっと暑くなったら、アイスクリームもいいかと思っています」
「実は、再来週から娘の幼稚園が夏休みで」
 マキタさんは、なるほどと頷く。世間に夏休みというものがあったのだと、いま思い出したような顔をする。
「じゃあ、アイスは残暑のお楽しみですね」
 あまりにも自然な提案に、わたしはほっと息を吐いた。
 レアチーズケーキに手を合わせようとしたマキタさんが席を立つ。テレビ台の引き出しからペンを取り出し、壁にかけてあるカレンダーに真面目な顔をして何やら書き込むと、忘れないように書いておきましたと満足気に振り返った。
 長い指が指すカレンダーの第一水曜日の欄には、大きすぎる三角形の上にいびつな丸が二つ重なっていた。またひとつ、はじめて知った。美しいコードを書く人の描く絵は、不器用でかわいいのだ。


 ソファーでパラパラとめくった本をパタンと閉じる。久しぶりに触れた用語に頭が痺れる。スマホの画面のなかでは、かつての同期が輝かしい仕事の成果を報告していて、いくつものおめでとうの言葉がチカチカしていた。
 玄関のドアが開く音。あちいーといつもより大きな声を出して、ダイゴが帰ってきた。本を目に触れないローテーブルの下にしまう。廊下までいき出迎える。鼻歌まじりに、背広と鞄を渡された。愚痴だらけで酔うことが多いダイゴだが、今日はご機嫌な飲み会だったようだ。
 スーツをクローゼットに直して戻ってくると、ダイゴはソファーに沈んでいた。冷たい麦茶が入ったコップを持っていく。飲み会楽しかった? ときくと、ダイゴはまあまあとわたしの手をとる。外から帰ってきたばかりのダイゴの体温は、クーラーの利いた室内にいたわたしには熱くて、その温度差にすっと背中が固くなる。
「しよう。座ってよ」
「でも、ユイおきてくるかも」
「いいじゃん。すぐ終わる」
 すぐ、とは何なのだろう。ベルトを緩める音を聞きながら、リビングの灯りを落とす。パジャマのズボンと下着だけ脱いで、ダイゴの上にまたがる。ぬるりと、口の中に舌が入り込んでくる。鼻の奥をアルコールの臭いが抜けていく。
 ごつごつとした指が、パジャマのボタンをはずし、申し訳程度に乳首を刺激する。すぐに太ももの内側に手が伸びてきて、わたしは身を固くする代わりに湿った息を、吐く。茂みに指が沈んだのが確認の合図。すぐという言葉の通り、覚えのある形がわたしを押し広げる。
 馴染む、というのは便利だ。何度も何度も侵入してきたものを、わたしの身体は決して拒まない。記憶された反応がなぞられた肌から染み出してくる。
 暗さに覆われたフローリングの床に、自分ではないような声がぽつぽつと落ちる。
 いま、肌を濡らしつなぎとめているのは、愛なのだろうか。愛でなければ、なんだったら正しいのだろう。
 ソファーの背もたれに手をつく。後ろからダイゴが入ってきた。視界の先に、落ちているウサギのぬいぐるみが映る。その瞬間、わたしは海の底にいるみたいだと思った。音のしない場所。誰もいない水の膜が覆う光から遠い底で、わたしは水面の揺らぎを見つめている。
 昼間、腕に触れたマキタさんの肌の感触がふっと昇ってくる。覆いかぶさる夫がゴム越しに果てるのを感じた。

「そういえば、同僚に三人目が生まれたんだけどさ」
 ダイゴはトランクス姿のまま氷の解けた麦茶をあおる。日常のリビングで営むセックスは、やっぱりどこまでも日常の延長線上だ。
「聞いてるだけで超大変そう。理想は二人だな」
 丸めたティッシュが、ゴミ箱から外れた。わたしはティッシュを拾うついでに、床に落ちていたウサギのぬいぐるみも手に取る。
 四歳のユイは、幼稚園で新しい歌や遊びを覚えてきては、次々と披露してくれる。チューリップの花の歌にあわせひらひらさせる小さな手で、ぬいぐるみを赤ん坊に見立てオムツ替えをする。もし、こんな愛のかたまりのようなものが、ふたつ並んでいたら。想像するだけで涙が出そうになる。
 赤ん坊だったユイは、夕暮れになると決まって泣いた。火が付いたように夜中まで泣き止まない日もあった。狭いアパートの一室で、置いたら泣き出す赤子を抱いて座ることもできず彷徨った。ソファーの上には取り込んだだけの洗濯物、シンクには汚れた食器とフライパン。仕事に疲れ帰宅する夫の夜食どころか、わたしが口にしたのはスティックパンだけだ。
 途方に暮れてベランダに出る。マンションの三階からは、車の音や人の声が聞こえた。小学生が、またねと友達に呼び掛けている。みんな家に帰る時間だ。わたしが帰る家は、ここにしかない。
 吸い込まれるようにベランダの下を覗こうとすると、胸に抱いたユイのおでこから、ふっと甘いミルクの香りがした。
 あの頃、わたしの身体には目に見えない糸がついていた。わたしは、その糸が怖い。欲しいのに、怖い。
「海外で子育て、なんてのもいいかもな」
「え?」
 思わぬ言葉に振り返る。ダイゴは楽しい夢でも見るように、唇の端を上げた。
「今日言われて。内示ってやつ。サンフランシスコ支社に」
「聞いてないよそんなの」
「なんだよ、出世だよ?」
 心外だとでも言うように、ダイゴが声を張る。
「だって、マンションだって、買ったばかりで」
「そんなのオフクロとオヤジが金だしたんだから、どうとでもなるって。それより、西海岸に数年とか最高じゃん。家だってもっと広くなる。家賃補助も出るから心配ないよ。子育て環境だって、日本みたいにギスギスしてないっていうし。ユイの将来を考えれば、英語に触れられるチャンスだろ」
 そうだけど、そうじゃない。言葉をうまくつかめず舌が空回りする。
「そうだ、夏休みはせっかくだからユイの英語教室でも探してみたら?」
 早ければ秋には異動かな。とにかく正式に決まったらまた話すからと、ダイゴは風呂場に向かった。空っぽになったコップが、ぽつんとローテーブルの上に置き去りにされている。
 このリビング、こんなに暗かったっけ。
 ウサギのぬいぐるみをおもちゃ箱にしまう音が、やけに大きく耳に響いた。


 テーブルにかかる朝の光が、いつもと変わらない影をつくる。
 カリカリに焼いたベーコンに、半熟の目玉焼きとバターを塗った六枚切りのトーストが、恋人だった頃からの朝ごはんだ。
 あくびをするダイゴが黄身の焼き加減だけは褒めてくれて、ユイがトーストを頬張りながらパンくずを床に落とす。それが、わたしの日常だと思っていた。
 ダイゴは、起きるなり早朝会議だとご飯も食べずに出勤した。
 マグカップから、まだ湯気が立ち上っている。
 頭のなかで、昨夜投げつけられた「海外転勤」の文字がぐるぐると回る。冷蔵庫に貼られた幼稚園からのおたよりが目に入る。マキタさんに話さなければ。ああ、夏休みにどこに行くか決めていない。ユイのお気に入りは、近所の公園の黄色いブランコだ。遠くにはいけない。わたしは、どこにいけばいいのだろう。
 ママ、と小さな塊が腰のあたりに抱きついてくる。パパは? と首をかしげるかわいい子におはようと笑いかけて、寝癖を撫でてあげる。朝の幼児番組に目を奪われている隙にやわらかい髪をふたつに結ぶ。白のスニーカーに、紺色のプリーツスカートと淡い水色のポロシャツ。頭から爪先まで園の指定に包まれた身体のあったかい手を引く。エレベーターのボタンを押したがる子を高く抱いてあげる。
 朝の日差しが早くもアスファルトを焼く。小花が散った白い日傘のレースの淵がまぶしい。ブロック塀の向こうに、緑と青の塊が見える。アジサイだ。知らない人の家の庭に、深い海の色が咲き誇っている。誰かが水をまいたのだろうか。お飾りの花の、満ち溢れるように光る雫にめまいがする。 
 赤茶色のレンガの塀とピンク色のペンキで塗られた幼稚園の門まであと数歩というところで、くんっと手を引っ張られた。ユイがうつむいて立ち止まっている。左巻きのつむじがふたつ。この子の頭の形は、ダイゴにそっくりだ。
「ユイ?」
 身をかがめ、ユイの顔を覗き込む。耳からほっぺたにかけて、真っ赤になっている。まただ、と思った。
「どうしたの? もう幼稚園すぐそこよ?」
 深く息を吸って、可能なかぎりの優しい声で話しかけるも返事はない。ユイはあらん限りの力で口をまっすぐに結ぶ。ここ最近のユイは、泣かない。
 入園したての頃は、こうじゃなかった。
 破裂して飛び散る水風船のように、ごうごうと涙を流す四歳児を前に、何回もため息を殺した。幼稚園に行くのをあきらめた朝もある。
 唯一の救いは、何を求めているかわかることだった。単純に、ママと一緒にいたい。ぬいぐるみを持っていきたい。テレビをもっとみたい。わかっていたから、わたしは泣き叫ぶ彼女の手を取って隣にいれた。泣くだけ泣いたら、ストンとつきものが落ちたように門をくぐっていく。
 ところがどうだろう。
 いま、燃えるように赤く縁どられた薄いまぶたが物言わずにゆれている。ちくちくと刺す小骨が、わたしの喉に引っかかる。急き立てるような重い塊が、胃の奥からせり上げってきそうだ。
 ユイ、と名前を呼んで彼女の前にしゃがみこみ目線の高さをあわせた。わたしから視線を逸らす彼女に、どうしたらいいか行き場を考えあぐねた手を背中に置く。
 かたい。薄く小さな背中が、すべての物を拒絶するように固く、熱かった。
 わたしの腰ほどの高さしかない、まだまだ折れてしまいそうな細さの腕を伸ばすこの子の身体のなかに、嵐のような感情の渦がある。涙ではじけさせる代わりに、言葉を探している。固い殻を破り、芽を出すような自分自身の言葉を。
 手のひらをわずかに動かせば包んでしまえる背中を撫でて、肩を寄せる。同じクラスのママが、目であいさつして通り過ぎていく。夏の日差しが時間を止める。足元に日傘が転がっている。言葉にならなかった言葉が静かに沈んでいく海の底を想った。
 そのとき耳元で、消え入りそうな声が聞こえた。
 「パパに・・・いってらっしゃい言いたかったぁ・・・」
 ふにゃ、と積み木が崩れるように目から涙を流すユイを、そうだね、さみしかったねと抱きしめる。ポケットからチリ紙を出して鼻をかんであげた。木陰の涼しさを集めた風が前髪をゆらす。しばらくして、ユイはすっきりしたように顔を上げて、ピンク色の門に吸い込まれていった。
 ジリっと夏の熱さが首筋を焼く。わたしは、転がった日傘にゆっくりと手を伸ばす。


 ひさしぶりにヒールのあるサンダルで歩くと、視界が高い。シフォンのギャザースカートにまとわりつく手がないだけで、こんなにも軽いものなのかと驚く。両手が紙袋でふさがることぐらい、なんてことない。
 駅ビルの大きな時計が示すのは午後六時半。スマホになんの音沙汰もないことから、いま頃ばあばがご機嫌でユイに甘いものを与えているのだろう。
 <今日、大学時代の友達から急に連絡きて。夜出てきてもいいかな? 海外に行くってなったら、ほんとに会えなくなっちゃうし>
 幼稚園の帰り道で散々悩んだ文面を、最後はぎゅっと目をつむってダイゴに送った。案の定、返信の第一声は<ユイは?>だけで、ばあばが面倒をみてくれるとわかったら<まあ、たまにはいいんじゃない>で終わった。
 バックのなかでスマホが振動した。取り出して、画面に表示された名前に鼓動が一段跳ねあがる。
<いつでも>
 たった四文字をゆっくりと目で追い、ぎゅっと握りしめてスマホをバックにしまう。ちらりと茶色の封筒が目に入った。
 川をわたるいつもの電車に乗り込む。銀色の車体が夕焼けを追い越していく。つり革を掴む指の先から、どんどんと青い夜の成分が染み込んできて、やがてすっぽりとわたしを覆いつくす様を想像した。
 深い海の底で、音もなく言葉が降っては沈んでいく。
 そっと羊膜がやぶれるように生まれ変われたらいいのにと目をあけると、そこには紛れもないわたしが窓にうつっていた。
 クーラーの冷気を吐き出す扉から、二本の足でプラットフォームに立つ。夕方の熱気が肌に絡みつく。高架橋沿いに歩き、しだいにまばらになっていく家路につく人々に紛れ川沿いの道に出た。
 川を渡る空はいつも広い。
 流れる水の方向に逆らいながら歩く道は、どこまでも行けるような気がして、唐突にわたしはひとりだと思った。大きく息を吸いこむ。草の影から、最初で最後のこの夏の匂いがする。前から歩いてきた、小学生ぐらいの女の子と買い物袋を手に下げた女性に道をゆずる。川のむこうの手の届かない対岸に、いくつもの光の粒が浮かんでいる。きらきらとした白、黄色、赤、青。遠くにあるものは、ぜんぶきれい。幸せであると不幸ではないの間は、どれくらい離れているのだろう。
 マキタさんのマンションの部屋番号を押す。エントランスが音もなく開いた。ここにエレベーターのボタンを押したがるユイはいない。
 黒い玄関の扉が開く。
「どうぞ」
 マキタさんにうながされてなかに入る。扉を閉めたマキタさんの腕がすぐ横にあって、抱きしめられそうなくらい近づいてしまう。
 手をわたしの前に出して、なにかを受け取るような仕草をしたマキタさんは、階段の最後を踏み外した人のような顔をしたあと、笑い出した。
「今日は、花を持ってなかったですね」
 この玄関をくぐるときは、かならず手の中に花があった。毎週、マキタさんが真っ先に受け取ってくれて、『きれいですね』と香りをかぐために花に顔を近づける。その日の空の色と気温、マキタさんの部屋を思い浮かべて、似合う色の組み合わせを選んだ。マキタさんが棚から花瓶をそっと取り出して、キッチンで並んで花を生ける。あまりにも香りが強すぎたり、大振りで一人暮らしの男の人の部屋には派手すぎるような花でも、マキタさんはすべて受け入れてくれた。
 ただ花を飾りに来たこの部屋に、来れないというなんてことない未来が、ぎゅっと胸にささる。
「かわりにデザート買ってきました」
 整然としたダイニングテーブルの上に、持っていた紙袋をのせる。紙袋から取り出した白い箱はドライアイスが効いていてまだ冷たい。
「アイスクリームを、一緒に食べようと思って」
 箱の中には、二つの金色のカップが綺麗に並んでいる。アイスクリーム。マキタさんが、カレンダーに書いてくれた不格好な丸と三角。
「秋になったら、夫の転勤で海外にいくことになっちゃって」
 マキタさんの顔を見ないように話す。
「ほんとに急で。いやになっちゃうくらい」
 多めに入っているスプーンを取り出す。
「チョコとバニラ、どちらがいいですか?」
 カップを両手に掲げたわたしを、マキタさんはまっすぐ見ていた。
「もうここには来れない?」
 マキタさんの言葉を飲み込みながら、うなずく。アイスクリームカップを受け取ったマキタさんは、そのまま手を引いてわたしを椅子に座らせた。マキタさんも隣に腰かける。
「あの、来週は幼稚園が午前中で終わりって気づいて」
「うん」
 マキタさんは身体ごとわたしに向き合って聞く。
「ほんとうは、夏休みの間もこれないかって色々考えたんです。おばあちゃんにお願いするとか、預かり保育とか」
 うつむいているわたしの手をとった指先が、熱い。
「でもやっぱり無理なので。だから、今日で最後にしようと思いました」
 つとめて明るく言い切ったわたしの手に触れるマキタさんの指先に力がこもる。長くて細い指をじっと見つめる。花瓶を、いつも大切そうに扱っていた指だ。リビングに沈黙が通り過ぎる。
 サヨさん、と呼ばれて顔を上げると、マキタさんは目を細めてキッチンのほうを見ていた。視線の先を追う。そこには青いアジサイたちが、一本一本丁寧に葉っぱを取り払われ、細い緑の茎と丸い花の形を保ったまま吊り下げられていた。
「残しておこうと思ったんです。できるなら」
 水分が抜けていく花びらは、時が止まって沁みついたような淡い水色になっている。
「でも、難しいですね」
 なかには、上手に乾かずしおれているものもあった。梅雨明けのアジサイより、秋に出回るもののほうがドライフラワーにしやすいんですと、マキタさんは続ける。
「ここには、彼女が残していったものがたくさんあって」
 カノジョの発音が、はじめて覚えた単語を使う幼稚園児みたいだ。
「サヨさんがくれた花を飾った日に。きれい、でしたね。ちゃんと、きれいだと思ったんです。そしたら次の花は何色かなって楽しみになりました。朝起きるとね、花があるんです。ものすごく青空の日も、土砂降りの雨の日も、色づいたものが部屋のなかにあって。目に入るたびに、サヨさんのことを考えていました。いまなにをしてるかな、とか。そういう、なんてことないことですけど」
 茶色のダイニングテーブルや陽の当たる窓際のソファーで、わたしを思い浮かべるマキタさんの姿を、ひとつひとつ想像する。
「あとは、次のおやつは何にしようかなとか」
「全部おいしかったです」
 ここで口にした甘さを思い出し、笑みがこぼれた。
「でしょ? サヨさんのお気に入りとか、知ってることが増えるのは楽しかったですね。甘くてもちょっと苦いのがお好きなんだなと。キャラメルとか」
「そう、ですね。好き、です」
 正直にこぼれた本音を、もう一度声にする。
「だから僕は、さみしくなくなりました」
 口元に浮かんだ小さな皺を、ダイニングの灯りが照らしている。目から溢れた熱いものを、マキタさんは親指でそっとすくいとってくれた。
「マキタさん」
「はい」
「いまは、さみしいですか?」
 できることなら、マキタさんの名前だけを何回も何回も呼んでいたい。
「さみしいですよ」
 黒縁メガネの奥にある瞳が光ってる。マキタさんが、近い。背の高い彼がかがむと、わたしの顔に影が落ちる。手が痛い。もっと痛くてもいい。
 わたしの頬を包む大きな手に手を重ねる。涙で濡れた親指が顎の線をつたい、迷いながら唇にたどりつき、指の腹でゆっくりと撫でた。海の味がする。
「マキタさん」
 響いたわたしの声に、マキタさんが動きを止める。
「わたし、決めたんです。いただいた封筒のお金、勉強に使おうって。いつになるかわからないけど、いつかデザイナーとして復帰するために、使おうって」
 マキタさんが思い出させてくれた白紙の未来には、できない欠片のほうがずっと多い。でも、折れた枝で埋もれている自分はもう嫌だ。
「だから、お礼だけ言って、帰ろうって決めたんです」
 目の前にある口元が、言葉を探して動こうとしている。
 きっとそれは、わたしの欲しい言葉だ。
 耳にしたら、うれしくて嬉しくてとけてしまう。
 だから聞けない。その言葉をもらってももらわなくても、きっと後悔する。
 指が唇から離れ、流れつづける涙の線をぬぐう。息遣いがわかる距離にいても、数センチ先の世界に踏み込めないほどの壁がある。
 笑おうとすればするほど、表情がくずれた。
 鞄の奥底でスマホが振動している。ダイゴが、いまどこにいるのとわたしを探している。もうひとつの紙袋に、ユイのワンピースとダイゴに買ったネクタイが入っている。あの家についたら、疲れたと口癖のように吐き出すダイゴに、精一杯の笑顔で礼を言う。ベッドに寝かされたユイの短いまつげを愛おしく眺める。
 振動は途切れない。吊り下がるアジサイのかざりの花びらが、美しく枯れていって、永遠の色を残そうとしている。
 目を閉じたまぶたの裏に、対岸がみえる。川がどこまでも、見えないところまで流れていこうとしていた。



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