【掌握小説】おなじ月をみている
電車の座席に沈み込むと、仕事の疲れとともに力が抜けた。
ああもう、休日出勤なんてするもんじゃない。炎上鎮火に使った脳みそが、電車のリズムに合わせてぐらぐらとゆれる。窓の外を流れる景色はすでに夕方。それでも、空に浮かぶ白い三日月が、まだ夜があるよと私に教えてくれる。
こんな日は、ちゃんとグラスを用意して、お気に入りのビールを注ぎたい。重い気分をぐっと受け止めてくれるような、苦みのあるやつがいい。あとはレンチンの蒸しナスと、マグロを和えたやつ。
食べたいものが思い浮かぶ気力があるうちは、お惣菜よりも、少しだけ手を加えてキッチンに立つ料理のほうが、最終的に私を元気にしてくれる。数年間の一人暮らしで身に着けた、自分を生かす知恵のひとつだ。
「ねえお父さん、お月さま同じかたちだねえ」
扉のところで、小さな女の子が張り付くように窓の外をみていた。みつあみにぶら下がっているウサギのリボンが可愛らしい。隣に立つ父親は、揺れで女の子が転ばないように、片手でうすい背中を支えている。
「そうだね。遠くにあるから、どこまでいっても同じ形にみえるね」
眼鏡を指でくいっと押し上げて、父親は窓に顔を近づけ女の子と同じ方向に視線をむける。
「でもね、違う形の月が見える場所もあるんだよ」
「えーー?」
「南半球っていってね、お父さんたちがいるところから、反対側の地球だよ」
「ふーーん」
女の子は、絵の具が染み込むように広がるブルーを白く切り抜く光を追う。窓に人差し指をくっつけて、三日月をピン止めしているみたい。
南半球か。冷蔵庫にショウガはあったかなと考えながら、空港で手を振って見送った彼の顔が浮かんだ。
***
ひとりの夜は、忘れたころに届く絵葉書みたい。待ちわびていた静けさに、自分の感情をしみ込ませる。
半額だったマグロに元気づけられた私は、2本目の缶をプシュッとあける。グラスに泡だつ白と黄金色の世界を眺め、そういえばとベランダに出た。
マンションの隙間の夜空に、まだ三日月が残っている。スマホで撮影してみると、わりと綺麗に撮れた。電車で思い出した彼の名前をタップして、日本の秋の三日月がしゅるんと地球の反対側に飛んでいく姿を想像する。
時差は3時間だっけ。もう寝てるかな。ビールをぐびっと飲んで画面を見つめていたら、きっかり2分後に既読がついた。
『おー、三日月。秋だな』
まだ起きてた。それだけで、四角い窓でつながる夜がわずかに色づく。
『ねえ、そっち晴れ?三日月出てる?』
『ちょっとまって』
今いるのニュージーランドだっけ、オーストラリアだっけ。この半年間、月が替わる度に違う居場所を告げる彼が、羊が寝ている農場で夜空にスマホを向ける姿を想像して、口角があがる。
『あー、晴れだった。三日月だったわ』
写真送ってなんて一言もいってないのに。そこには、トトロがいるような大きな木の間に浮かぶ、星と月が映っていた。
『あーやっぱり。ちがうんだね形』
『かたち?』
『うん、なんていうの?鏡に合わせたみたいに反転してるでしょ』
私の窓の外に浮かぶ三日月は、右下向きで左が欠けている。彼の三日月は、左下向きで右が欠けていた。
『こっち、南半球だからな』
『同じ月をみてないよね』
『いや、見てる月は同じだしw
離れてるから、違う風に見えるってだけで』
そうか、離れているからか。じゃあ、一緒にいたときはどうだったんだろう。私たちの目には、同じように映っていたんだろうか。
大学で友達の輪のなか、光る花火を見た海辺。社会人になって、彼女に振られた彼の背中をさすった居酒屋。二人きりで、うまく笑えなかった終電後のアパート。それでも、友達にしかなれなかったファミレス。
私は、しばらく海外に行くと、急に切り出した彼の横顔を見ていた。ずっと、見ていた。
いくら友情に見せかけても、どこかで溶け出してしまう醜くて美しくて捨てきれない気持ちを抱えた私を、彼はどんなふうに見ていたんだろう。
不自然に途切れてしまったメッセージをつなぐように、彼の言葉が続く。
『さっき、ちょうど音楽聞いてて。前に教えてくれたこれ』
夏の終わりを歌う曲のリンクが送られてくる。
『よかった。好きだわ』
指先で、あの頃欲しかった二文字をなぞった。喉が渇くほど恋焦がれていたくせに、勇気がなくて彼にはちっともあげられなかった気持ち。
いまなら、離れているいまなら、少しだけ大人になった私は、この距離に正直になれるだろうか。親指を、ゆっくりと動かす。
『あのね、』
曲のことじゃなくて、と付け加えて、同じ言葉を送った。
既読がつく。沈黙は、こわくなかった。ずっと、待っていられる気がした。
『あのさ、』
彼の
『こっち真夜中で』
返事に
『眠れなくなるから』
うん、と頷いて、笑った。
ベッドが薄くて狭いと楽しそうに話すシェアハウスで、違う形の三日月に見守られて彼が私を想っているなんて、ひとりでも悪くないと思える夜だ。
電波が悪いから、来週末に街に移動したらまたちゃんと話そうと、彼からのメッセージを受け取って、おやすみと返した。
次の週末は満月だろうか。丸い月も、同じに見えるか彼に聞いてみよう。
さらに高く昇った三日月が、隣のマンションの屋上に引っかかっている。形を変えても、いなくならない月との距離が愛おしい。
グラスに残ったビールを飲み干すと、秋の夜風がキスをするように頬をなでていった。