見出し画像

どこにも行けないひとりの夜に、どうぞの一冊【幾千の夜、昨日の月】

眠れずベッドからも離れられない。どこにも行けない夜は、急速に、ひとりが色濃くやってくるように思う。

そんな夜があったのは、だいぶ前のことだ。ちょうど7年前の、娘が生まれてからしばらくは、毎夜がひとりぼっちの眠れぬ夜だった。

南半球の8月は冬の終わりで、あの年は小さな雪が舞ったくらいの寒さで、春の匂いがするはずの9月になっても、夜になると寝室の窓枠からひんやりとした空気が忍び込んできた。

23時、1時、2時半。泣き声が聞こえるたび、温かい布団から這い出すようにして赤子を抱き上げる。授乳の間、あまりにも小さすぎる塊を、前後に揺れる頭のわたしが潰してしまわないように手に取るのは、光る長方形の窓。

命を産み落として2週間。つまりは、細切れの睡眠で「4時間以上まとまって寝る」が幻となって14日。もうろうとした頭で、まだ「サトウカエデ」になる前だったTwitterのアカウントに産まれたと短く書いた。

しばらくして、青く光る通知。終わらない冬の夜のなか、インターネットの片隅で、わたしもどこかにつながっているのだと知った。

角田光代の『幾千の夜、昨日の月』を読んでいたら、だいぶ遠ざかっていたひとりの夜を思い出す。

本書は、「かつて私に夜はなかった」と題された1本のエッセイからはじまる。

子どものころには夜がなかった。

「夜」に対する著者の視点を追っていくうちに、そういえば、と夜がもっと近くにあった頃を思い浮かべた。

今でこそ夜は、昼間にすり減ったHPをわずかにでも多く回復させるべく寝る時間だけれど、まだ「なかった」夜のことや、はじめて踏み入れた夜のことを想うと、自分がとても、今とは違う顔をして夜を通り過ぎてきたのだと気づく。

夜は否応なく、私たちがひとりであると気づかせる。ひとりであると気づいたときに味わう気分は、そのときどきによって違う。<中略>そうしてあるときは、一瞬前までともにいた人が、心から大切だと痛いほど思ったりする。
/かつて私に夜はなかった


本書に収められた24本のエッセイは、どれも「夜」がテーマだ。そして、とりわけ「旅の夜」を書いたものが多い。

バンコクのドンムアン空港からカオサン通りへと向かう夜の路線バスを書いた「旅のはじまりは夜」。マラケシュからたどり着いた夜のワルザザートを書いた「夜のアトラス」。

行ったことのない異国の夜。いるはずのない景色の匂い。

色の黒い、白いシャツを着たその男は、じいーっと私を見下ろしていたかと思うと、鼻の下に指を二本あて、真顔で「カトチャン、ペッ」と言った。へなへなと腰が砕けそうであった。
/夜のアトラス

旅が失われてしまったこのご時世だから、色鮮やかに映るのだろうか。

それもあると思うけれど、角田光代という人の夜をこの手のなかで追っていると、ひとりであるはずの夜のとなり、とまではいかなくとも、ほんの遠くないところに誰かがいる。そのさみしくない事実が、胸に降りてくる気がする。


最後に夜のなかを旅したのは、2年前の冬だった。

隣町のスキー場に、車で5時半かけて向かう一泊二日の旅行。午前中に雪山に着くべく、辺りが真っ暗なうちにエンジンをかけて出発した。頭上にオリオン座が瞬いていた。

娘は、カーシートのなかでまだ寝息を立てている。30分ほど走ると、街が過ぎ去り山に入った。車の窓の外はひたすらに暗い。振り返ると、後方の夜が薄められていく空に、黒々とした木々の輪郭が浮かび上がっている。

海から上がってくる朝陽が、空の端をゆっくりと、たしかに橙色に光らせていた。

前は夜、後ろは朝。一日のはじまりの境目は、意外なほどにくっきりとしていた。夜の闇は、どこにも交じり合わない。まるで朝に追いつかれないように、車は夜の山道を走り続ける。


かつて、わたしの夜はひとりだった。そのひとりの闇は、何かで変わることはなかった。それでも、ただつながっていた。誰かのひとりの夜と。たしかに、やってくる朝と。



いいなと思ったら応援しよう!