代々木の鉄道高架橋を撮った


代々木駅前に建つ高架橋

最近、東京の煉瓦造鉄道高架橋にハマっている。昨日、代々木の鉄道高架橋の写真を撮ってきたので、近代史と鉄道史、建築史から考えてみた。
かなり適当なことを言ってるかもしれない。

鉄道開通間もない1880年代の東京には、新橋から西に伸びる官営鉄道と、上野から北に伸びる日本鉄道が存在してた。
現在の山手線の品川〜赤羽間は、東京の南北の鉄道を結ぶために、日本鉄道が1885年に開通させた「品川線」がその端緒。

ちなみに、有楽町、新橋近辺に残る煉瓦の高架は、1910年竣工。

東京駅は1914年開業で、神田の高架橋は1919年竣工。

神田〜上野は、1925年の竣工。
1888年に、近代初の都市計画「市区改正」が条例として施行されて以来、鉄道の高架化が進められたが、ここまで工事が伸びたのは、東京の地価の高さと人口密集に加えて、日清日露第一次大戦の影響による。
その都心を避けるべく敷設されたのが、品川線という訳です。

明治も後半になると、新宿、渋谷近辺にも開発の手が伸びた。
1906年には、甲武鉄道の代々木駅が開業。
1909年には、山手線の代々木駅も開業。
1920年には明治神宮が創建。
1929年の「東京行進曲」という流行歌には
「変わる新宿あの武蔵野の 月もデパートの上に出る」
という歌詞がある。
1930年には、関東大震災で被害を受けた伊勢丹が新宿に移転開業し、いよいよ繁華街としての地位を築き上げてきた。
そのために、この区間も大量輸送に対応すべく、複々線化、高架化が進められた。
代々木付近が高架化されたのは、1921年頃だとされている。

意匠面において私見を語ってみる。
煉瓦は、長手と小口の積み方を、1列づつ交互に詰んだイギリス積。
イギリス積は、明治中期〜後期に流行したスタイルだが、鉄道では比較的長く使われているように思う。
だが、1914年竣工の東京駅は小口積、1919年竣工の神田の高架橋も、RC造に小口積の煉瓦タイルと、イギリス積主流の時代は終わっているように見える。
この煉瓦の積み方の差は、建設会社による物なのだろうか?

そして意匠について。
隅石が目立つのは、他の同時代の橋台、橋脚と変わらない。
だが、今までは存在した、西洋古典主義由来のデンティルやメダイヨンといった装飾は消えている。
ここには、年代的な背景があるのではないかと思う。

日本の古典主義建築の受容は、見様見真似の擬洋風建築に始まり、1873年、工部大学寮(現、東大工学部)が設立され、ジョサイア・コンドルが招聘されると本格化する。
そして、1909年、工部大学寮一期生の片山東熊による赤坂離宮の竣工をもって、日本の古典主義受容期は完了したとされる。

その後、帝大工学部の卒業生らが、1920年に日本初の建築運動として「分離派建築会」を設立。
かたや、この頃の欧米で新しく生み出された建築は、アメリカのフランク・ロイド・ライトのプレーリースタイルや、
フランスでは、ル・コルビュジエのドミノシステム。ミースやグロピウスのモダニズムが開花していくのも、20年代。

ドミノシステムの模型

つまり、世界中で古典主義を脱却し、建築を前進させようとの機運が本格的に高まっている訳ですね。
前述の分離派建築界の面々、山田守や山口文象らは、逓信省営繕課に勤めていた。
他にも吉田鉄郎なども在籍してたし、日本におけるモダニズム建築の旗手のような組織であった。
国家に資する人材を育成するという帝大の意義からして、卒業生が省庁に集まるのは当たり前ではあるのだけど。
鉄道省もまた同様で、御茶ノ水駅の駅舎に代表されるように、モダニズムに対して、鋭敏な嗅覚を持っていた。
土木と建築は違うとはいえ、意匠については、建築の影響下にあるのは事実。つまり、長らく隅石と古典主義の意匠だった高架橋にも、新風が吹き始めていると言える。そのために高架からも装飾が消えたのではないか、と考えたら何だか面白い気がする。

この高架の橋脚は、RC造だろう。
コンクリートも、モダニズム建築を構成する重要な要素だ。
そう考えると、あの煉瓦の高架は、まさに時代のはざまに作られたのかもしれない。

この高架を潜った先には、古めかしい出口がある。
代々木駅が高架化したのは高架橋と同時期であるから、1923年の関東大震災時には、ほぼ現在の駅舎が完成していたという。この出口は、様式的にはセセッションだろうか。

散歩は楽しいが、何だかまとまりの無い文になってしまった。
まぁ、いいか。思考遊びみたいなもんです。

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