道北の神社について
私は今、日本の北辺にある寒村に住み込んでいるのだが、宗谷ラッセルに秘境駅巡りと、鉄道趣味に関してはそれなりに満たされている。
しかし、住み始めて3週間ほどが経ち、もう一つの趣味である歴史趣味に飢えてきた。
いかんせん、北海道は日本史に乏しい。(縄文からアイヌまでの、先住民の歴史は別として。)
近隣で最も歴史がある街は、松前藩の場所が置かれた天塩である。
内陸の開拓が進んだのは近代、とりわけ明治後期以降だ。道北の村落には、開墾、砂金取り、鉄道開通程度しか目立った歴史がない。
バイト先の机に置かれていた地元信用金庫のコミュニティ誌を見ると、宗谷地方の風土や歴史を特集した回のようで、表紙に大きく「大正11年、宗谷本線全線開通」の文字があった。
本州であれば、鉄道特集でもない限り、路線がここまで注目される事は無いように思う。歴史を省みた際に、述べる事象が少ない事の証左のように思えた。
個人主義が浸透した昨今では、事情が少し違うようにも思うが、私は、個人のアイデンティティは、かなりの部分が歴史に立脚していると思う。
日本人という属性であれ、集落の一員であるという属性であれ、エスニシティはその集団が歩んできた歴史から生まれている物だし、エスニシティの最たるものである「家」という単位も、信仰における祖霊崇拝も、家の歴史を尊ぶからこそ生まれる物である。
しかし、明治になり北海道に入植した人々は、各々の故郷の歴史から離れる事を選んだ。
戊辰戦争に敗北し、北海道に活路を求めた会津藩士や仙台藩士らを始め、食うに困って屯田兵となった多数の士族、郷里を離れて集団で移住した農民たち…。

萱野長修は、戊辰戦争での会津藩敗戦の全責任を負い処刑された。
だが、彼らは離れた地でも郷土人としてのエスニシティを堅持しようと、鎮守の神社を創建した。(国家神道における、一町村一社制に迫られた部分もあるだろうが。)異郷の地だからこそ、親しんだ神に縋りたい。その気持ちは理解できるつもりだが、現代人の私が考える以上に、彼らにとっては想像以上に真に迫った問題だったのではないだろうか。
では、現在はそれらの集落の鎮守はどうなっているのか。
私が住んでいる問寒別にも、集落の外れに問寒別神社があるので、参拝した。
勧請元は不明だが、「問寒別郷土史」によると創建は1909年。
聞いた話によると、御祭神は国常立尊だそうだ。

本州とは雰囲気の違う、北海道の景色の中に佇立する神社の姿は、やはり見慣れないものだ。神道は、自然崇拝を基調とする信仰なだけに、内地の自然を離れ、アイヌ達が崇拝した神霊の住まう森に神が祀られている事への違和感は拭えない。
当然とはいえ、普段は訪れる人もなく、境内は寂寞としている。
だが、7月30日の例大祭の様子をネットで検索すると、小集落ながら地域住民の参加が盛んなように見受けられた。
集落が潰えて、神さびた社のみが跡を留める場所も多い中、これは喜ばしいことだ。
全国的に、年齢が低くなるにつれて信仰離れの傾向が強まっているのは明らかだ。今日では、寺社への信仰がどれ程人々のアイデンティティの形成に寄与しているのかも、分からない。
そんな状況下で、長い歴史による格式を持たない北海道の小社は、さらなる苦境に立たされるのではないかと思う。
だが、町に信仰が根付く限り、ゲマインシャフトとしての地域の共同体は維持されていく。そして、その地域の一員であるというエスニシティは、次代を背負う人々のアイデンティティとなり、愛郷心へと繋がっていくはずだ。
どうか、これからも古来の人々の思いと神への崇敬の念が、他地方にも北海道にも受け継がれていく事を願って止まない。
歴史趣味に飢えていたが、北海道という新興の土地の小さな歴史に想像を膨らませるのも、これはこれで面白いかもしれない。
北海道滞在中に、近隣の街の神社も巡ってみようと思う。
場所が置かれた海沿いの町に鎮座する厳島神社や金刀比羅神社も、趣深いものだ。