満月が怖い

2年前、自転車で日本一周していた時に、友達が運営していたフォーラムに投稿するために書いた文章を見つけた。
月に対して感じていた恐怖感の正体を、明文化してみたかったようだ。(走っている時や、夜テントの中に入った後は暇なので、思索の時間は腐るほどある。)
まあまあ面白い気がするので、コピペしてみる。



私は、空に浮かぶ満月が怖い。

正確に言えば、月は月齢に関わらず不気味だと思う。黒い空にぽつねんと浮かんでいる月に、常に見られている気がするのは私だけではない筈だ。なので、その追跡から逃れて建物に入ると、すごく安心する。
実際、世の中には月恐怖症という症状があるそうで、多くの人が月に何らかの恐怖を感じているのは、間違いないだろう。

しかし、その中でも特に満月が怖いのだ。さらに言えば、出てからあまり時間の経っていない、未だ強い光を発さずに、まん丸とした姿を山や建物の上にハッキリと見せている満月が怖い。
何故だろうかと考え、私は一つの結論に至った。

一言で言ってしまえば「天上影は変わらねど 栄枯は移る世の姿」である。
これは、言わずと知れた名曲「荒城の月」の歌詞だ。
栄えていた城が、やがて朽ちていく。その栄枯の中には常に変わらぬ月があり、月は世の諸行無常を静かに見つめ続けている…という内容の曲。
土井晩翠の詩は、月と城の対比を使い、巧みかつ詩的に無常観を描いている。日本で最初の西洋音楽と言われる曲が、日本の伝統的価値観である無常観を描き出しているという事実は、素直に嬉しい。

満月はその名の通り、地上から見ると正円と見紛うほど丸い。
人類が誕生する遥か以前から変わらないその姿は、まさに完全無欠に見え、この世の道理とはかけ離れた所にあるように見える。
古代人の素朴な月への信仰も、こうした畏怖から出たものだろうと思う。
日本神話において、月読尊が「夜の食国」なる異界を治めていたというのも、何となく分かる気がする。


だが、真に恐ろしいのはここからだ。
現代人たる我々は、その月ですら、宇宙からすれば塵芥に満たない存在である事を知ってしまった。
この事を考えるに、私が満月を見る時には、完全無欠で不朽の印象を与える満月そのものへの畏怖に加えて、さらにその背後にある、あまりに遠大な宇宙への恐怖を無意識的に感じているのだろう。
その果てしなさの前に、自分の日常や、自分が精神的な支柱としている日本という国や、その文化が、吹けば飛ぶようなものでしか無い事を、否が応でも突き付けられる事が怖いのだと思う。


こうして考察した事で、月に抱いていた恐怖の正体が分かった気がする。
自然と共に生きていた時代の人々と近しい感性を持てるようになったのも、野宿をしながらの長旅のおかげに違いない。
だが、月や宇宙への恐怖は、当分抱き続ける事になりそうだ。


余談だが、古代人が満月への畏怖を抱いていたであろう事を実感する出来事があった。
それは、曇った日の夕方に神社に参拝した際の事だ。
当然、拝殿の中に光は届いておらず、真っ黒い空間だけが見えた。しかし、拝殿に供えられた御神体の丸い鏡だけが、外からの光を受けて白く輝いていたのだ。
神性を目の当たりにした私は、満月を見たのと同じような、怖いのに目を逸らし難い感覚を覚え、祭器たる銅鏡が丸い意味は、月を含む天体を模しているのではないかと感じた。


最後に、夜の食国や鏡の話は、ただの歴史好きである自分の想像に過ぎず、実際の学説とは何ら関係ないものである事を断っておきます。


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