一度は行ってほし世界文化遺産 近世編 (ヴィッテンベルグ ドイツ)
第4位ヴィッテンベルグの1517年
今日もドイツの話が続く・・・
ヴィッテンベルグは日本には馴染みが薄い町だ。しかし、歴史を紐解いてゆくと、そうも言っていられない。私も旅行業界にいながらヴィッテンベルグに行くまではいささか時間がかかった。きっかけはチェコのプラハでヤン・フスが火刑で処刑された場所に銅像が建ち、宗教改革の先駆者と知ってからだった。後年、マルチンルターが登場してくる100年ほど前の人だ。ジョン・ウィクリフの元で宗教改革に向って行くが、動機は十字軍の戦費を賄うためにローマ・カトリックが「免罪符」を売ったことに端を発し、教会から破門され、コンスタンツの宗教会議で火刑を言い渡されプラハで処刑された。
現在の中学、高校ではどういう風に教わっているか分らない「免罪符」という言葉はラテン語のindulgentiaを日本語訳したものだが、この語源的意味に免罪の意味はなく、「許しを得た後に課せられる罪の償いを軽減する」とある。だから、免罪符という言い方は正しくなく、むしろ、免償符または贖宥状(しょくゆうじょう)が正しいと・・・
その贖宥状は16世紀初頭、ローマ・カトリックがサンピエトロ大聖堂建立で財務が逼迫し始め、常套手段としてこれを売った。これが時のドイツの司教の野望と結びつき、その命を受けたティッツェルがヴィッテンベルグにやってきた1517年、マルチン・ルターは教会の門扉に「95条の論題」を掲げ、贖宥状の矛盾を問うた。まさに、カトリックに対する反旗を掲げプロテストした。ドイツはカトリック派、ルター派に割れ、農民戦争等と結びつきドイツ30年戦争になった。フランスではユグノーの宗教戦争へ。そして、カトリック陣営のお膝元のイタリアではスイス国境にカトリックの巡礼地を造ったり、スペインではイグナシオ・ロヨラがイエズス会を起こし、時の大航海時代の波とともにカトリックの世界布教へと乗り出した。フランシスコ・ザビエルが遙か日本までやってきた意味はヨーロッパのこんな動きに端を発していた。そんな意味でヴィッテンブルグの教会やアイスレーベンのルターの生地、そして、フリードリッヒがルターをかくまいその時に聖書のドイツ語訳を書いて有名なアイゼナッハのヴァルトブルグ城を訪ねて見ることを薦める。
マルチン・ルターはアイスレーベンで生まれ、亡くなった。聖職者としてはこのヴィッテンベルグで過ごした。1996年、ユネスコは「アイスレーベンとヴィッテンベルグにあるルター記念物群」として世界文化遺産に登録した。現在、「95か条の論題」を掲げた門扉は消失してしまったので、1858年にその95か条が刻まれたブロンズの扉を見ることができる。アイスレーベンにはルターの生家が残っている。
(写真の説明 上:プラハ・旧市街広場に立つヤン・フス像。中:ヴィッテンベルグの城教会。下:ルターが生まれたアイスレーベンの街並み・・・Wikimedeaより)