絞られたオリーブの行方 2023.9.23
つくづく私は仙人を見つけるのが上手いと思う。
数年前、水の波動を調律した命の水で滲み絵を描かせてもらった。
お水の調律師も仙人の眼をしていた。紙の向こうに引き込まれるような、自分が結晶の一部になって永遠に色の中へ閉じ込められるような絵ができた。私が描いたなどということは微塵も思いつかなかった。
絵をやろうと思ったきっかけはこの体験だった。
9月23日
マリンメッセ福岡で開催中のAFAF - Art Fair Asia Fukuokaに行ってきた。電車とバスを乗り継いで1人で。そういや1人で来てる人見かけなかったな。
経路とか氣にせずフラフラできるのがよい。私はピンと来た絵の前を陣取り、ピンと来具合によってはお写真を撮ったり作家さんのInstagramに飛んでみたりスタッフさんに話しかけてみたりした。
ポップアップギャラリーで惹かれて、天神の三越あたりの通路に飾ってる作品も舐めるように観させていただいてるすぎもりえいとくさんがいらっしゃった。Dreamerシリーズがとても好きだ。妖精さんのお茶目でお祝い上手なエネルギーが、小さなキャンバスにちょこんと収まっていて、目……があるかどうか分かんないけど目が合うと嬉しくなって首を傾げてニッコリしちゃう。今日もニッコリしてきた。
銀ソーダさんにもお会いした。色んな所で作品をお見かけするけどお会いできたのは初めてだった。絵の印象と同じように一見涼やかでスタイリッシュで、お話するとほこほこしていて可愛らしい方でした。
壁一面を覆うどデカキャンバス布に世界地図、いや宇宙地図のような青のダンス跡。それを四角く切り抜いて木枠に貼り、作品として販売していた。ご縁のあったキャンバスの周りは赤い糸、ご縁を待ってるキャンバスは青い糸で囲われていた。切り取られたキャンバスは人の視点、糸の結界はパーソナルスペースを表現してるんだって。世界が生まれて視点ができて、それぞれの人生へ散らばっていく。流れを展示するという見せ方がすごく暖かくて、優しくて壮大だった。
初めてお見かけして吸い寄せられた日本画家の原田有希さん。
小さい子のぷくぷくした指のお肉、まあるい手の形、ほっぺ、線が綺麗すぎて見とれちゃった。さらに、流行りの繊細な感じではないどちらかというと大胆無骨な色彩と、何を考えてるか分からん幼い真顔がいい具合にマッチして愛らしくてねぇ、おばちゃん目が離せなかったわ。作者さんがちびっ子を見つめる眼差しまで感じられて……。眼福。
日本画に見とれて部屋に入ったら作家さんが話しかけてくださった。
そこはsystema galleryというグループのブースだったらしくて、海外をメインに売り出すために日本古来の描き方や素材にこだわってるんだよと教えてくださったのが石田克さんだった。
このおじいちゃんから漂う仙人の氣配。「修行を終えて人里に降りてきた噂のお爺」感が半端ではない。瞬時に構えた。
私は「湧き出てくるものを留めずに出し切る修行を達成し、力まずとも止まらなくなった循環の中で永遠に漂うこととなった瞬間、瞳が焦げ茶からオリーブ色になる」ということを何故か物心ついた時から知っていて、そういう人を達人とか仙人とかアセンデッドナントカと呼ぶことを少し前に習った。例えば私のメンターのuさんやiさん、東海オンエアのてつやさん(移行中)などに認められるなぁなんて思ってる。直感で石田さんはそのタイプの瞳だと感じた。直線が感じられない独特の広い目線。水凝りのような、磨りガラスの細工のような、宙と視点とを融かす瞳。
ブースの真ん中に大きく3つ石田さんの絵が掛かっていることに氣付いていなかった。石田さんが「コレが僕の作品なんだけれどね」と指差すまで見えていなかった。こんなに大きいのに。たぶんその存在の仕方が他の作品とあまりにも違うから脳が「絵」だと認識していなかったんじゃないかと思う。
まず、絵は画面からこちら側に向かってくるものだと思ってた。その圧が心地よかったり暑苦しかったりする。筆跡に導かれてこちらに流れ出して来る色の粒が澄んでいたり踊っていたりするものだと。
でも石田さんの絵?は向こう側へ吸っている。漆黒のようでミルキーな感触に触れたと同時に吸い込まれていく。音もなく。私は絵を描くから分かるけど、意図して描いたらこの向きには流れない。衝撃だった。
「こちら側に来ないですね。強いのに静かでびっくりしました」
と伝えたら
「向こうに沈んでゆく絵を描きたくて神の手を借りたんだ。ボクが描いたのはこの小人の解釈だけ」
と教えてくれた。
ドンピシャやん。私が一番やりたいやつやん。意図をここまで削ぎ落とすとどんなスピードで描けるんだろう。神の手で描いているところを見てみたい。
次に、画面に描かれたものが絵画だと思っていた。
しかし石田さんの絵?は存在だ。画面に引力があるというより壁に架かっているモノが沈んでいる。
見つめていたくなる理由がグランドキャニオンとか昆虫に対するそれと同じなのだ。『どんな想いが込められているのだろう』とこちらから覗きに行くのでなく『生命の神秘やな〜』と端から全享受の姿勢が取れる。
お話によると、既存の画材を使ったら表現は潰れてしまうからヒマラヤに家を買って紙を梳いたんだそうだ。伝統的なやり方で。自然はオリジナリティを殺さないから。ガチで修行じゃん。
インクも自分で作ったんだそうだ。開発するのに30年かかったらしい。だから紙の上でも神の手を殺さずに活かすことができるのだと語ってくださった。
石田さんは私の絵……切り絵と水彩と油を見てくださった。
バックボーンが見えないね、ただ綺麗。隠してるのか、無いのか。若いからな。と笑っていた。
「作品は色、形、素材だ。だけども色に拘ってるうちは本来の形を知れない。形に拘れば素材を生かせない。ただ素材に拘れば、色と形を考えなくとも自然に現れる。これは作家も同じで、作家のバックボーン・ストーリーをひとたび知ればみんな彼の描くものに価値を見出すよ。何を描くかじゃなくなぜ描くのか。どんな不遇の中で……どんな喜びの中で……描いたかが一番大事なんだ。そこを知ってもらうことだ。何を感じて何を描いたかは副産物」
なるほど一理あると思った。
一理あるというのは私の作家性に採用して面白いかという基準でだ。
例えばもちぎさんの繰り出すど下ネタや鉄板ナルシストジョークも、とんでもなく傷付いて逃げてきた過去や生きることへの希望や執着を知った上で読むと、強く生きる知恵だったり極上のエールとして受け取れる。それはもちぎさんが向き合って向き合って苦しんで考えて逃げてそして考え尽くしたエネルギーが凄まじいから。
私がやるとどうなるだろうか。
というより、それが出来るほど強く強く向き合ってきただろうか。
〜
意図せんでも完璧やのに意図しろと言われました。愛の必然を努力だと褒められて嫌でした。目標を決めたら正と負ができてしまうのが悲しくて逃げました。渋々頑張ったらドラマが生まれて、役から抜けられず死にたくなりました。死ぬの失敗して痛かったから死ぬのやめました。オーラ見えんようにしたのは自分やのに、氣づいたら三次元より高いところはチャネリングしないといけないスピリチュアルになってました。元いた所が遠くて絶望しました。生きながら帰れないなら妖怪か宇宙人のポジションに就こうと思いつきました。これなら地に足着けられないのを売りにできるし、感性が繊細すぎたってアーティストだから許されると思って。
実際許されました。というか許せました。あの、普通に愛を描く宇宙人で通用する時代来ました。時代が追いつきました。
めでたし。
〜
これで満足しているのだから拗らせようがない。
古来よりバックボーンとしてポイントの高い三種の神器、逆境・底意地・泥臭さが微塵もないが、禅ってのはドラマから抜けるストーリーだもの仕方がない。
やっぱ時代がちがうもん。文字通りウチら悟り世代だからさ。人間らしさの次元も変わってきて引き寄せも解明されて、泥臭さの美学が通用しないもん。
石田さんは連絡先を渡してくださって、良い絵が描けたら送ってよとニッコリしてくれた。面白いお話をたくさん聴けてホクホクだけど、本物のゲージュツ家になってやるといったような熱い希望は湧かなかったことが、脳からすると意外だった。まあそういう氣分になれば送らせてもらおう。バックボーンに関しては地球体験記で文字にしているから、これから描く絵と合わせて面白そうなネタがあれば合わせて公開するのもアリだな。
私は今世ホンモノにならないかもと思った。仙人みたいな、1つのジャンルを極限まで突き詰めてオリーブに達する人に。
私は絵を楽しむだろうか。それとも楽しいだけじゃ満足せず素材の極道に足を踏み入れるだろうか。両方を飛び回る妖精でいようか。ありがとうに共鳴したお水を使うことから始めようか。
2023.9.23 ZEN