唸る!「う~ん」~「マァチャンの日記帖」(手塚治虫著/毎日新聞社刊)


「マァチャンの日記帖」
(う~ん)
寝てみたい、な~んて三船敏郎が呟くCMがあったけど、
(素晴らしい!)
(何て凄いんだ、わたしって奴は!)
連載当時、17歳。今は北野高校となっている学校の生徒。二十歳にも満たずにいた手塚の異端な才能に驚くと共に、愛蔵版。
少々高いが価値がある。普通であったら、殆ど無視の型版本を購入していた自分にも、加え、付加価値を見るのである。

「サザエさん」
昭和21年の漫画本と言ったら、これあろう。
長谷川町子が海岸を散歩しながら、ふと思いついた。サザエさん一家誕生の瞬間だ。「お魚加えた」「買い物しようと」庶民の生活そのものだ。

んが、同じ昭和21年に出た作品でも、「マァチャン」は違う。
いいとこの子である。
可愛らしい。まるでアイロンでも掛かったような、きちんとした服装をしていて、ベレー帽なんかを被っている。親を「パパ」だの「ママ」だの呼んでいるのだ。

「パパ」「ママ」
昭和30年代に育った子供、曰くわたしりひと廻り前後上の世代には、どうもアチラ流というか、拭えない違和感。どこかしらに濃い抵抗感があるようである。
いいとこの子であれば「お父様」「お母様」であった。それが徐々に崩れ始めて来たのは、所謂外国製のテレビドラマの影響とナルちゃん。
現・天皇陛下が、ごく幼い頃、お母様であらせられる現・上皇后様をお呼びになられていたからだ。
「いいやね。モダンな感じがするし」「発音しやすいし」「お洒落じゃん」
=「パパ」「ママ」呼称が浸透したと、わたし自身は考える。

昭和21年。
終戦でぐちゃぐちゃ、ぐっちょん、ぐっちょんの襤褸雑巾みたいな世の中で、そう親を呼ぶ子、子供に呼ばせる親なんて、かなり変わっていた。

「ベレー帽を被っている」生意気な奴だと、近所のガキに虐められる。
「何だか生意気そうだな、お前」叩かれる。パパが映画制作会社に勤めんていて、ベレー帽を被っったりするもんだから、マァチャンも被る。呼称は親が教えたもんだから、自然「パパ」「ママ」とマァチャンも呼ぶ。

「モダンで最先端な家庭」例え作品設定の中。74年後の令和となった今、大人から見れば「恵まれた環境の中に育つ子供」であっても、子供の目からすれば「変わってる」。近所のガキのマァチャン評だ。

「変わった子供」曰く「マァチャン」。
ひょっとして作者手塚は、自分の小学校時代を投影していたのではなかろうか?17歳の10年前。小学2、3年生ぐらいまでの自分自身を。
背が低くて、頭がデカい。
大きな丸い眼鏡を掛けてて、どこがどうとは言えないが
「変わった子」
周囲から見られ、虐められてた年齢の日々を。
「違う星から来た人」
妹さんは表現しておられたが、家族であっても、時に感覚があったようだ。

「庶民の生活」「家族の平和」「ご近所つきあい」
がテーマ「サザエさん」

「変わった子」「変わった家族」
「モダン」より「ヘン」が似合ってしまうような、とてもじゃないが時代に合わない「マァチャンの日記帖」。同じ昭和21年でありながら、この差は何なのであろうか?

「世の中の矛盾」
努力だ、夢があればどうたら。目標があればうんたらなんてよりも、より現実。
矛盾を抱え、現実に呻(うめ)きながらも、楽しく生きると既に手塚は考えていたんだ、思っていたんだなぁと思わずにはいられない。

愛読書である「ブラック・ジャック」に共通点を見る。

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