生きている人を“推す”ということについての自分語り
人間を「消費」している。たまに、自分の行動をそう評価してしまう。光輝く“推し”の姿はとてもかっこいい。そのかっこよさをただ漫然と受け止める、そんな自分の姿に時折疑問を抱いてしまうのだ。
“推し”は芸事をしている人間であるため、その芸を楽しむことが私たちにできる唯一のことである。私たちはその芸事に対し金銭を払っていて、そこには生産者と消費者の健全な関係性があるように見える。
しかし、生きている人間を“推し”ていると、その言動、生活全てが愛おしく思える瞬間がある。芸事をしていない時間も、推しを消費し始めるのである。
もちろん、推しが私たちに見せてくれる姿はほんの一部だ。ブログやx(旧Twitter)などで発信される姿は、推しが今この瞬間をファンに見せよう、と思って発信しているものである。
それは推しの全てではないし、推しのパフォーマンスの一部として捉えることもできる。
そう落とし所をつけて、推しを推し続けていると、そんな中でどうしても引っかかることは出てくる。推しの発信内容に疑問を持ってしまう時だ。
「価値観がアップデートできていない…」昔推していた人に対して思ったことがある。それは、「笑い」のセンスであったり、共演者の方への接し方だったり、様々だ。しかし、推しも一人の人間であり、その価値観をたかが1ファンである私が変えることはできない。また、変えようとも思わない。
推しが芸事として出ている舞台に対して疑問を持った時などはまだマシだ。その疑問は、脚本家や演出家に対して向けられるから。しかしながら、xのポストやブログ、カーテンコールでの発言などになると推し個人の発信になってしまう。そうなるともうダメだ。自分の持っている価値観と推しの価値観が心の中でぶつかり合い、推しを全肯定したい自分と、推しとはいえその発信を看過し難い自分の戦いになる。
結論から言うと、私はかつての推しを全肯定することができなかった。葛藤の末、私はその推しを推すことをやめた。かつての推しを否定するわけではない。ただ、私の価値観と合わなかっただけ。
こんなことで推すことを止めるのか?とも思った。出演作やファンミーティングのために遠路はるばる向かったり、グッズをたくさん買ったりしていたことも私を悩ませた。
そもそも私は、こんなことを言いながらもそこまで感度の高い方ではないし、価値観をアップデートできていない方だと思っている。まだまだ権威主義的な部分はあるし、ふとした瞬間に家父長制に乗っかった発言をしてしまう。
また、普段の人間関係においても私は目を瞑りがちなところがある。友人のちょっとした発言が引っかかっても、その場の雰囲気を壊したくなくてスルーしてしまうことの方が多い。この社会の価値観を作っているのは、そんな「ちょっとした発言」一つ一つだと知っているのに。
そんな私であるのに、推しのちょっとした発言には厳しくなってしまうのは何故だろう。
それは私が推しの「消費者」であるからに他ならない、と思う。あくまで私と推しの関係は生産者と消費者であり、それ以上でもそれ以下でもない。
消費者は自分が何を購入するかを選ぶことができ、「買わない」という選択肢がある。
推しを「消費」するのではなく、「信仰」する人もいるだろう。それは、推しの全てを肯定することに繋がる。私は以前の推しに対してこうなりかけた。しかし、その微妙な価値観のズレをどうしても看過することができなかった。
推しを全て肯定するのは楽だ。何も考えず、推しの発信に全てを委ねればよい。しかしそれは思考の放棄だと私は思う。
推しを全肯定することの楽しさも否定しない。その楽しさはよくわかる。しかし、相手はあくまで生きている人間だ。そこに「絶対」などないし、間違うことだってきっとある。推しは神様ではない。自分の全てを委ねるものではない、それが今の私の考えだ。
さて、私はこの文章の初めに「消費」する自分への疑問を書いた。その疑問は今も残っているが、推しを妄信し、何もかも肯定するよりは幾分か健全ではないか、とも思っている。
また、「消費者」である以上、推すも推さないも自分の自由だ。私、つまり消費者の声を聞くも聞かないも推しの自由であり、それに対し私たちは消費する⇔しないで答えるしかできないのだ。推しに変化を強要することは私たちにはできない。ただ、声をあげるだけである。たとえそれが届かなくても。
そして声が届かなかったとしても、私たちはそれに怒ってはならない。相手も一人の人間なのだから。自分がターゲットから外れた、と思ってそっと消費をやめるだけである。
生きている人間を商品として消費していることへの罪悪感はまだ消えない。しかし、相手を人間として扱う、つまり何もかも盲信する神として扱わないためにも、「消費」と考えることは必要なのだ。それが今の私のスタンスである。
この考えは今後変わるかもしれない。変わる可能性の方が高い。人間の考えは流動的だから。
今、私には推しが一人いる。その推しを「消費」することは、私にとって幸せである。推しが発信し、「生産」している物事はどれも私に幸せを与えてくれる。今の推しの持っている価値観を私は信用しているし、安心して推すことができている。
また、今の推しは私に「信仰」されることを望んでいないという信頼がある。私の推しは「言葉」を重視している、ように私からは見えるからだ。
今の推しは自分を全肯定してくれる信者ではなく、対話と思考が可能な「人間」がファンである方が嬉しいんじゃないかな、そう思っている。あくまで私からはそう見える、という話でしかないのだけれど。
私が今の推しを推さなくなる時はあるのだろうか。少なくとも、今の推しに対して不満は全くないし、今後もそうであろうと信じている。そしてそう信じていたい。
しかし、推しだって人間だ。そして私も人間だ。人間は変わりゆく。その変化の中で、推しに対して何かしらの不満を持つようになるかもしれない。もしそうなったとして、自分が「良き消費者」のまま推し活をやめられることを願う。どうか私が、推しを妄信し自分だけの理想の推しの型に嵌めようとしませんように。「信仰」ではなく、「消費」し続けることができますように。