見出し画像

それを旅と呼ぶのなら。

何処へ行くのかは分からないが、とにかく、私は向かっている。
― カール・セーガン

"I don't know where I'm going, but I'm on my way.”― Carl Sagan


ほんの少し哲学的な気分で、人生を俯瞰してみたり回想してみたりしたことがある人ならば、不思議と誰もが思っている。

「人生とは旅のようなもの」

それは古代から現代に至るまで変わらないらしくて、人類史に大きな足跡を刻んだ数々の偉人たちが人生を旅に喩えた名言を残し、去っていきました。
誰がこの喩えを最初に思いついたのかは分かっていませんが、人生を旅に喩える表現は時代や文化圏を問わず、繰り返し用いられてきたようです。
人が生きる間に辿る「経緯」「時間」「場所」「体験」「思考」の道筋に旅を重ね合わせる感覚は、何故か人の腑に落ちる「人生」の捉え方だったのかもしれません。

その旅は本人がはっと気づいたときには既に道半ばで、この世に生まれた瞬間から唐突に、本人の意志とはまるで無関係に始まっています。
それは「おめでとう!さあ、いってらっしゃい!」と問答無用で送り出されたかと思ったら、「いつかは分からないけど、そのうち時間切れになります。君は死ぬ」という、とんでもない後出しをされるひとり旅です。
旅の行先は不明、目的も不明、それなのにしっかり時間制限だけは決まっている。

いつやってくるかわからないタイムアップを背負って。
何処へ行けば良いのか。何をすれば良いのか。
自分の望みは何なのか。自分は何者なのか。
これで良いのか。何が良いのか。誰に良いのか。
何ひとつわからないまま、秒針の音に急き立てられて歩を進める。

そんな過酷な旅ではあるものの、行きつ戻りつ迷走しながらもとりあえず進んでいったなら、新しい何かを発見し、貴重な何かを獲得することがあります。この旅で体験する発見と獲得は基本的に、良いものであろうがなかろうがまったくお構いなしのランダムですが、進まなければ触れることのなかった新しい何かであることは確かです。

それは見たこともない景色かもしれないし。
あるいは好奇心を刺激する面白いものかもしれないし。
もしかしたら強く望んで探し求めた宝物かもしれないし。
行く手を阻む強烈な雷雨の襲来かもしれないし。
遠くに霞んで見える、自分以外の旅人の後姿かもしれない。
背後から、あなたを呼ぶ誰かの声かもしれない。

私は様々な悩みごとのご相談を承るアドバイザーです。
相談者さんのお話を伺っていると、全ての人がそれぞれに、自分の中に独自の世界観を持っていることに気づかされます。個人がこれまでに経験した出来事、これまでに生きた世界、これまでに出会った人々との間で培われたものが、人生観や価値観といった個人の哲学となって語られるとき、目の前の相談者さんの背後に見知らぬ旅の情景と、ここまで渡ってきた旅路が広がって見えるような気がするのです。
賢く着実に栄光の道を選んできた輝かしい姿でも、激しい嵐を抜けてきた傷だらけの姿でも、語る言葉や表情や仕草、喜びも悲しみも心の奥にしまった痛みでさえ、全ては生きた旅の証であり、ただ尊い。
 
私自身は他人の話を聞くのが好きな旅人で、出会った人の話を良く記憶します。くわえて少し変わった視点と知識と経験を持っていて、求められれば実用的なアドバイスをすることができる。
人生の旅において数多くの旅人と擦れ違うことはありますが、お互いの足を止めて語り合える誰かに出会うことはそんなに多くありません。
それはお互いの旅路の途上で偶然出会い、幸運にも言葉が通じて、もっと深い話をしても良いなと気持ちが動き、そのために双方が心を開く勇気をもってようやく成立する奇跡のようなものです。
その時間は、本当に貴重なものです。

人生を旅と呼ぶのなら、それを生きる人は皆、旅人と言える。
あまりにも壮大で孤独なひとり旅の記憶を、聞き手となって耳を傾けるとき、人は皆それぞれ遠くからやって来て、今もずっと何処かへ向かって旅をしているのだと、不思議と敬意に近いものを感じます。 
行く先々で誰かの話に耳を傾けて、奇跡を噛み締めながら。
私もまた、旅をしているのです。
 
 

いいなと思ったら応援しよう!