人生の岐路
皆さんは自分の価値観や考え方が変わるようなシーンに出会ったことがありますか?そうゆう時というのはいつの間にか訪れていて、その時はあまり気づいていないことがあります。知らぬ間に気づかされたことを、理解して知らぬ間に考え方を変えてくれている。今になって思えば理解していたのだと気づくのに。
そんな昔の話。。。
小学校6年生
冬の卒業式前の授業
ぼくらは教室でいつものようにN先生の授業を受けていた。もうすぐ卒業して晴れて中学生となる。心はこの先のどうなるのか分からないことへの期待感と、仲の良い友達が進学校へ行ってしまい離れることのさみしさや多くの気持ちが入り混じっていた。もう終わると分かっていれば授業など何も苦ではなかった。そんな時N先生は総合の時間でぼくらが今まで作ってきた絵や作品を返却してくれた。ぼくは正直、こんなの確かに作ったなあといった具合で、返してもらうまで作ったことを忘れていた。みんなで返してもらったものを見ながらあーだこーだといつものように騒いでいる。もう明日には卒業するのだか浮足立って当然だ。
今までの作品をすべて返却し終わると、N先生から最後に何かプレゼントがあるという。
「先生はみんなに色紙を書いてきました。一人一枚です。そこにはみんな一人ひとりに向けた漢字が書いてます。」
言われたことの意味をよく分かっていなかったが、なんだろう?何が書いてあるんだろう?と気持ちは上がっていた。みんなざわついている。ぼくは名前の順では後ろ方なので,まだかまだかと周りが配られていくのを眺めながらあくまで平静を装っている。
順番に「愛」や「優」、「力」、「知」、「楽」、「聡」といった文字の書かれた色紙を一人ひとりが受け取る。ぼくから見てもそんな言葉をくれる先生は素晴らしい人だと感じれたし、まさにその言葉がみんなにぴったりだと小学六年生ながらに思えた。だからこそぼくは先生がぼくのことをどういう人だと思ってくれているのか、どんな素敵な言葉をくれるのか楽しみだった。
名前が呼ばれ色紙を受け取るとそこにはこの一文字があった。
「素」
素・・・どういう表情をしたらいいか分からなかった。もちろん小学六年生なので読み方は分かる。分かるから困ったのだ。「え?質素ってこと?そんなに幸薄いですかN先生?」言いたい気持ちを抑え、友達には見せずに席に座る。座ってもう一度考えるが思っていたような言葉ではやはり違った。
やはり人生は期待をするものではない。
そう思っていたらN先生が次はプリントを配り出した。それは最後の学級通信だった。
プリントには、一年間ありがとうございましたという感謝の言葉と、それぞれに「漢字一文字の贈り物」をします。と書かれていた。一人ひとりに贈った漢字に込めた思いが書かれていた。
ぼくに贈られた「素」という文字にはこんな意味が込められていた。
「あなたの一つ一つの行動や言葉がとても素敵です。コテコテに着飾られた衣装よりも、厳選された素材で丹念に編み込まれた一枚の服の方が大きな価値を持っています。いつまでもそんな素直で素朴な人でいてください。」
小学六年生の自分にはまだこの言葉の意味を正確には理解できていなかった。ただ、自分の行動や言葉が素敵だと言ってくれたことがうれしかった。確かにごちゃごちゃとブランド物の服に身を包む人を良く思えないし一つの大きな素晴らしいものさえあればその方がかっこいい!それくらいだ。それでも何か先生の言葉に納得できたのだ。
この言葉がぼくの中でいつの間にか全ての判断基準となっていた。素直であること、素朴であることは素晴らしいことなのだと。それ以来俺は自分に見合ったものを身に着けられるように、等身大でありたいと思っている。飾らないこと、自分という武器を洗練させること。ハイブランドに頼らずシンプルにいくこと。
もちろん多くのことを経験し気持ちの変化だってあるし、考え方も変わるがこれだけは変わらなかった。この時に俺の人生はいつの間にか分岐していたのだと今わかる。この言葉にどこまでの意味があるかは分からないが、シンプルイズベストだと思えたことで気持ちが軽くなりこれこそが指針だと自分の中で決めてしまえた。
小学六年の自分はこの時一瞬で「素」という言葉を嫌いになり、一瞬で「悪くないな」と思いながら家に帰った。
やおと(8010)