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プロローグ

1960年代後半生まれのオレも還暦近くになった。
「人生振り返ればあっという間」と月並みな感想が頭をよぎる。
もっと他に言葉はないのか?と思いを巡らすが、月並みな言葉以上の感想はない。月並みな言葉ほど「鉄板」な言葉はないのかもしれない。

オレが毎年、年齢を重ねていくように両親も年齢を重ねていった。
誰にでも「死」は平等に訪れる。
生きる人生の長さは人それぞれだが、
この世に生まれ、あの世に去る
という過程そのものは皆平等ではないかと個人的に思っている。

「長さ」はどうか?と問われると、
そこには神の差配する領域で「運」という平等が存在するのではないだろうか?

両親がこの世を去ったときに選択を迫られた。
実家をどうするか?
という、極めて世俗的な選択である。
いつか、それについて詳しく記すかもしれないが、結局は処分する決断を下した。
人生は決断の連続だとオレは思っている。
「決断しない」という決断も決断に含まれていると考えている。
オレは可能な限り「決断しない」という決断は、しないように生きてきたつもりだ。

だけど人生の重要な局面において皮肉にも
「決断」
から敵前逃亡してしまった。
「決断しない」という決断をしてしまったわけだ。
これは人生を振り返る「いま」だから言えることだ。

実家を処分するにあたって大抵のものは「決断」して処分した。

が、存在さえ忘れていた若い頃に撮影した写真は捨てることができなかった。
大量の写真をどうするか?
実現しなかった「夢」として、忘れるべく処分しようと考えた。
が、時代の進歩は「撮影した当時」の想像を超えていた。

業者に段ボール箱に大量のフイルムと写真を詰めて送ると、半年ほどかけて
DVD4枚にデジタル化してくれた。

一番安いプランを選択したので画素が粗いが、まぁこんなもんでちょうどいいと思う。
だけど、もう少しお金を払って「高画素」にしておけばよかったかな?と思ったりもする。

撮影した当時は、なんとも思わなかった写真。
(若気の至りで)写真雑誌に持ち込んだが全く相手にされなかった写真。
撮ってみたら、同じ狙いで先に見知らぬ誰かに発表されてしまってガッカリしたり。
振り返ると本当に恥ずかしいことばかり。

いろいろあったけど、
2024年に見てみると「なんか、いい感じ」がする。

誰かに見てもらおうと思って撮ったのに、
見てもらうことができなかった写真をお見せします。

当時を思い出し、
恥を忍んでシャッターボタンを押した当時の「想い」をお伝えします。

(文章はテキトーに書き換えたりします。お許しください)

#8090picture ’s
https://x.com/8090pictures
#2024年12月18日

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